次世代に伝えるスポーツ物語一覧

サッカー・長沼健


 日本サッカーが国民的スポーツに成長したのには、いくつもの転機がある。1968(昭和43)年のメキシコ五輪での銅メダル獲得。それから30年後の98(平成10)年、日本代表が初めてワールドカップに出場したフランス大会。そして韓国と共催となった2002(平成14)年のワールドカップ日韓大会。そのすべてに、“キーマン”として関わったのが、元日本代表監督にして元日本サッカー協会会長だった長沼健である。
 長沼は広島で生まれ育ち、関西学院大、中央大を経て55年から実業団サッカーの名門、古河電工(現ジェフ千葉)入りした。日本代表選手としてプレーした後、32歳の若さで日本代表監督に抜擢された。「日本サッカーの父」と称されるデットマール・クラマー氏が「長沼の方がはるかに日本サッカーの発展に貢献した」と述懐する通り、選手を怒るのではなく尊重した上で、対話と説得で伸ばすことを信条としていた。メキシコ五輪では、見事チームを銅メダルに導いた。
 94年に日本サッカー協会会長に就任後は、日本でのワールドカップ開催に尽力した。しかし、96年5月31日、スイスで開かれた国際サッカー連盟(FIFA)理事会で2002年大会が日韓共同開催に決まると、「志半ばだった」。長沼は韓国サッカー協会の鄭夢準(チョン・モンジュン)会長とともにワールドカップのトロフィーを手にしたが笑顔はなく、こう漏らしたという。長沼の好きな言葉は「志」。漢字を崩すと十一の心。日本単独開催はまさに、イレブンの心、すべてのサッカー関係者の願いが詰まった悲願だった。
 翌年10月には、成績不振だった代表チームの監督・加茂周を電撃解任し、後任に岡田武史を抜擢した。「全責任はおれが取るから」と一度は固辞した岡田を引き留め、チームはフランス大会への出場を決めた。本戦では予選3敗だったが、日本サッカーにとって確実に大きな一歩を踏み出した。長沼は後年、古河電工の後輩でもあった岡田を「腹が座っとる」とほめていたという。
 「志半ばだった」あの日から13年が経つ。昨年6月、長沼は77歳で逝った。日本代表は、2010年の南アフリカ大会へ4度目の出場を目指して最後の戦いの真っ最中である。長沼の遺志を継いだ岡田が、再び代表を率いている。=敬称略(有)