バレーボール・猫田勝敏
白いボールは打ち出されると、天井に届かんばかりに高い放物線を描いた。相手選手はまぶしそうに目を細めながらレシーブ。重量感ある鈍い音が体育館内に響き渡った。ボールが天井の照明にまぎれて見えにくくなることを狙った奇策、“天井サーブ”だった。
編み出したのは猫田勝敏。Aクイック、Bクイック、一人時間差を駆使したコンビネーションバレーで東京五輪で銅、メキシコ五輪で銀、ミュンヘン五輪で金メダルを獲得した男子バレーボールを、支え続けた、世界のセッターと呼ばれた男だった。
小学時代からバレーボールをはじめた猫田は、広島のバレーボールの名門・崇徳高校へ進み、セッターとしての才能を開花させる。日本専売公社広島地方局(現日本たばこ産業株式会社広島支店)へ入社し、専売広島(現JTサンダーズ)に入部。そして、20歳の最年少で1964年の東京五輪に出場し、銅メダル獲得に貢献した。
不動の日本のセッターは1969年のワールドカップではベストセッター賞を受賞し、名実共に世界のセッターともなったが、ミュンヘン五輪前年の1971年9月に試練が襲う。宮崎で行われた招待試合でチームメイトと激突。右腕を複雑骨折し、2回の手術を含む全治9カ月の大けがを負う。だが、執念のトレーニングとリハビリが実り、五輪の2カ月前に復帰を果たす。五輪準決勝のブルガリア戦では、日本は2セットを先取され、3セットも4-7の絶体絶命のピンチ。ここで松平康隆監督は猫田をいったんベンチへ下げた。復帰したとはいえ、ブランクが司令塔の猫田のトスさばきを微妙に狂わしていた。それでも再びコートに戻った猫田は一心にトスを上げ続け、奇跡の逆転勝利を呼び起こした。決勝で東ドイツに快勝、ついに念願の金メダルを獲得した。
一生の大半の時間をバレーコートの上で過ごした。コートを離れても、バレーボールの専門書を読みふけり、片時もバレーボールから離れることはなかった。顧みる余裕もなかった家庭だが、遠征先の海外などから禮子夫人や子供たちへまめに手紙を書き、気づかう側面もあった。
どんな態勢からでもアタッカーに一番打ちやすい地点へ上げ続けた正確無比なトス。仲間に「目をつぶっても打てた」と言わしめた。加えてアタッカーがミスをしても「トスが悪かった。スマン」と謝る謙虚さ。不世出のセッターは、1980年のモスクワ五輪最終予選を最後に全日本から引退。専売広島の監督を務めたが、胃がんで1983年に39歳もの若さで死去。死後も名声は語り継がれ、2001年には国際バレーボール連盟から世界バレーボール20世紀の最優秀賞特別賞が贈られた。
1989年に猫田の功績をたたえ、故郷・広島市に建設された猫田記念体育館では日々、第二の猫田を目指す若者たちがバレーボールの音を響かせている。=敬称略(銭)