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ミスターアマ野球・杉浦正則


 1996年8月2日、アトランタ五輪の野球決勝、対キューバ戦。金メダルに向けてマウンドに上がったのは、準決勝となった対米国戦に続く先発を任された日本代表のエース、杉浦正則(当時日本生命)だった。だが、米国戦では、6回途中を2失点に抑える好投を見せた杉浦も、強打のキューバ打線の前に、2イニングで6点を献上し、無念の降板となった。エースが序盤に崩れては、流れは呼び込めない。結局、試合も9対13で敗れ、銀メダルに終わった。
 「ミスターアマ野球」といわれる杉浦の野球人生は五輪と共にあった。90年、同志社大4年で初めて日本代表に選出され、北京アジア大会に挑んだ。この経験で「日の丸」を背負って野球をする責任の重みとともに、楽しさを知った杉浦は、大学卒業後はプロ野球ではなく、社会人野球の道を選んだ。当時の五輪代表は社会人野球の選手や大学生で構成され、プロ野球選手は参加が認められていなかったからだ。92年のバルセロナ五輪では、若手投手として銅メダル獲得に貢献。「最高の舞台で、最高のプレッシャーの中でプレーができる。五輪だけは『絶対に行きたい』と思えた場所」。4年後のアトランタ五輪での雪辱を誓い、ますます五輪に魅せられていった。
 何度もプロ入りの誘いもあったというが、五輪に出るために、アマチュアにこだわり続けた杉浦だけに、2000年シドニー五輪への思いは複雑だったに違いない。初めてプロ・アマ合同チームが編成されたからだ。「正直なところ、プロが入ってくると聞いて残念なところもありますよ。僕にとって、五輪はアマチュアの最高の舞台だ、という認識があったから…」。言葉にもその思いはにじんだ。
 それでもバルセロナの銅、アトランタの銀に続く悲願の金メダルを目指して、自ら進んでプロとアマの架け橋を買って出た。戦力としてのニーズは投手陣の中では一番低かった、と自身も認めるように、試合出場の機会はなかったが、日本選手団全体の主将にも指名され、プレー以外にも、言葉で伝えられることはある、と裏方の役割を積極的にこなすことでチームに貢献した。自身の体験に裏打ちされたその強烈なキャプテンシーはプロ選手にも影響を与えたことは想像に難くない。3位決定戦で韓国に敗れた後、プロの選手達が人目も憚らず涙を流したことからも伺える。そして杉浦自身、「日の丸にアマもプロもない。プロもアマも、野球の中でプロフェッショナルを目指しているという点では同じなんだ」と、その涙を見て改めて自身の信念がチーム全体に伝わったことを確信したという。そう思えたからこそ、杉浦も男泣きした。
 2012年ロンドン五輪で、野球は五輪実施競技から外れた。だが、代表の舞台がなくなった訳ではない。3月には第2回WBCが開幕する。2連覇を狙う日本代表はすべてプロ野球とメジャーの選手で構成された。日本代表候補の中には、アトランタ五輪で杉浦とともに戦った福留、松中らも名を連ねる。3度の五輪を戦った杉浦の「日本代表のDNA」は脈々と受け継がれるだろう。=敬称略(有)