陸上競技・吉岡隆徳「暁の超特急」
陸上競技の華といえば、男子百メートルが真っ先に挙げられるだろう。しかも五輪ともなれば、その注目度は計り知れない。その世界最速を決める五輪男子百メートル決勝の大舞台に立った選手がいる。吉岡隆徳。1932年(昭和7年)ロサンゼルス五輪でのことだった。
日の丸のはちまきをした160センチそこそこの小柄な肉体のどこに、馬力に勝る海外勢と互する力が秘められていたのか。観衆は目を見張ったに違いない。独特のスタートダッシュで、60メートル付近までではあるが、並み居る強豪を抑えてトップを走った。結果は10秒6で最下位の6位ではあったが、見事な入賞。実際、日本人の五輪短距離種目での決勝進出者は1992年バルセロナ五輪男子四百メートルの高野進まで現れなかった。このロサンゼルス五輪で優勝を飾り、「ミッドナイト・エクスプレス」と呼ばれたエディー・トーラン(米国)にちなみ、当時の読売新聞記者の川本信正が、吉岡を「暁の超特急」と評したが、まさに呼び名に見合う快走だったろう。
吉岡は1909年(明治42年)6月、神職の四男として島根県の農村に生まれ、杵築中(現大社高)から島根師範(現島根大)、東京高師(現筑波大)と進み、才能を磨いていった。現在のインターハイにあたる全国中等学校選手権では5種目に出場し、すべて1位。その能力は群を抜いていた。吉岡の持ち味は、何と言ってもスタートダッシュ。吉岡自身が「ハの字形スタート」と呼んでいたというが、低い姿勢からつま先が内側を向いた形に飛び出す走法だった。より速く走るために、工夫と努力で編み出したスタートダッシュでもあった。
快挙は続く。ベルリン五輪の前年の1935年には10秒3の世界タイ記録をマーク。周囲の期待は膨らんでいった。だが、メダル獲得への期待を一身に集めて臨んだベルリン五輪では決勝にすら進めずに敗退。失意に打ちひしがれた吉岡は、帰国の船中で自殺まで考えたほどだったという。
引退後は、広島高等師範教授、さらに広島県教育委員会などで体育行政に従事。55歳で陸上の指導者となり、飯島秀雄や依田郁子らを育てた。ベルリン五輪の前年に打ち立てた10秒3の日本記録は、それから29年後、教え子の飯島によって破られた。=敬称略(昌)