競泳・田中聡子
世界最速のタイムを持っていたとしても、五輪で金メダルを獲得するのは至難の業だ。重圧に打ち勝つ精神力はもちろん、“一発勝負”に調子を合わせることも求められ、さらには個人ではどうすることもできない運も存在する。1936年ベルリン五輪女子二百メートル平泳ぎで優勝した前畑秀子に次ぐ、日本女子競泳で2人目のメダリストとなった田中(現・竹宇治)聡子も、またそうした“運”に影響を受けた選手だった。
1960年ローマ五輪。筑紫女学園高3年で、大舞台に立つことになった田中は、「外国に行けて試合ができる」充実感に溢れていたという。初めての飛行機、初めての海外遠征…。世界が様々な意味で身近になった現在とは違い、当時の18歳にとっては、何ともいえない高揚感があったのだろう。前年に二百メートル背泳ぎで2分37秒1の世界新をマークしていたが、五輪種目に二百メートル背泳ぎがなく、百メートル背泳ぎでの出場を余儀なくされたのだが、そんな“不運”を吹き飛ばす勢いがあった。二百メートルに比べ、不得手な種目とあって50メートルは6位でターン。ところが、その後の猛烈な追い上げで、見事に3位に食い込んだ。「すべてがあっという間でした。覚えているのは、夜の屋外レースで、スタート直前に空を見上げたら綺麗なお月さまがあったことぐらい…」。無我夢中で泳いだ銅メダルだった。
むしろ重圧がのしかかるのは、メダルを獲得した後だった。4年後は地元、東京五輪。周囲の期待が膨らんでいったことは想像に難くない。「東京では銅メダル以上を」といった無責任な期待に、田中も苦しむ。だが、重圧につぶされはしなかった。「ベストの状態で泳げれば、いい。その結果がどうであれ、それが実力なんだから」。こう気持ちを切り替えたという。実力はもちろん、やはり銅メダリストにふさわしい精神力の持ち主だった。
結果は、惜しくもメダルに届かない4位。しかし、1分8秒6のタイムは、ローマの記録を2秒8も短縮していた。4年間、努力した成果だった。世界記録を打ち立てた得意の二百メートル背泳ぎは、東京の次の68年メキシコ五輪から五輪種目に加わった。ローマで、そして東京で二百メートル背泳ぎがあれば、と思う。その意味で“不運”ではあったが、ベストを尽くすことの大切さを身をもって示した田中は、やはり五輪にふさわしい選手だった。=敬称略(昌)