次世代に伝えるスポーツ物語一覧

女子マラソン・高橋尚子


 子供のころから「かけっこ」が大好きで、学校から帰ってくると田んぼや畑の広がる野道を走っていた少女が、28歳で臨んだ五輪の舞台で大きな花を咲かせた。
 「すごく楽しい42キロでした」。2000年シドニー五輪女子マラソン。誰よりも速くゴールテープを切った高橋尚子はこう言って満面の笑みをたたえた。2時間23分14秒の優勝タイムは16年ぶりの五輪最高記録。そして日本女子陸上界で初めての金メダルだった。
 一騎打ちとなったシモン(ルーマニア)を35キロ手前で振り切ったスパートは決して偶然ではなかった。シドニー入り後、32キロ付近に借り切った一軒家を拠点に、35キロ付近のアップダウンを利用して勝負に出る作戦を立て、練習を繰り返した。もちろんそれまでの過酷ともいえる練習があってこその切れ味だった。合宿先の米コロラド州では標高3500メートルという酸素が極めて少ない高地での練習を敢えて取り入れた。高地練習は1600〜2000メートル付近で行うのが一般的だが、誰よりも過酷な練習に挑むことで、「ここまでやったのだから」という自信を刻み込んだ。入念な準備と常識を覆す努力が県岐阜商、大阪学院大時代は無名に近い存在を五輪の頂点へと導いた。
 「小さいころから走るのが好きで、よく出かけていっては『セミが鳴き始めたよ』『とんぼが飛び始めた…』と、走る中で感じた風景や季節の移ろいを話していた」とは父親の良明さん。人一倍の情熱が原動力となり、01年9月のベルリンマラソンでは女子で初めて2時間20分の壁を破る2時間19分46秒の世界記録(当時)樹立にもつながった。
 その後は故障もあり、再び五輪の舞台に上がることはかなわなかったが、挑戦する姿勢は持ち続けた。05年に小出義雄監督との師弟関係を解消し、専属スタッフと「チームQ」を結成したのも、「より自分らしく走りたい」という挑戦の表れだったろう。「1日1日を全力で過ごし、その積み重ねでスタートラインに立つ」が信条。「あきらめなければ、夢は叶う」ことを走ることで、示したいと語ってきた高橋は、練習で自らに課した「関門をクリアできなくなった」ことを自覚したとき、引退を表明した。08年10月のことだった。
 「ありがとうラン」と位置づけた最後のレースには、シドニー五輪代表入りを決めた思い出の地、名古屋国際女子マラソン(09年3月)を選んだ。シドニー五輪の際、「すごく楽しい42キロ㌔でした」と満面に笑みをたたえた高橋は、沿道からの声援に終始、笑顔で応え、手を振りながら走りきり、「感動の42・195㌔でした」と締めくくった。
 「(陸上を始めて)23年間、かけっこを楽しく、思い切りやってきた。それが私の軸」と語った高橋は、自らを育ててくれた「かけっこ」の楽しさを今後も国内外で広めていきたい、という。=敬称略(昌)