女子マラソン・土佐礼子
恩師のツテを頼り、何とか実業団に潜り込んだ無名のランナーが、努力を最大の武器に、世界選手権で2度も銅メダルに輝き、そして東京マラソンを最後に、第一線を退いた。土佐礼子、32歳。「区切り」の42・195キロを走り終えたとき、その表情はくしゃくしゃだった。笑顔でゴールしようと心に決めていた。だが、待ち受ける夫の村井啓一の泣き顔を見たとき、「思わず、もらい泣きしてしまいました」。途中棄権に終わった北京五輪から7カ月。たどり着けなかったゴールをしっかりと越えたとき、二人三脚で「東京」を目指してきた夫婦は感極まった。
もし北京五輪でゴールできていたなら、「東京」には出ていなかったという。それだけ土佐にとって2度目の五輪は苦い思い出となった。原因は五輪1カ月前に患った外反母趾。10キロを過ぎたあたりから、着地のたびに激痛が走った。苦悶の表情を浮かべ、それでもゴールを目指す土佐の耳に、聞き慣れた夫の声が飛び込んできたのは25キロ過ぎだった。「もういい、やめろ!」。11回目のマラソンにして初めて味わう途中棄権だった。
失意のレースから1カ月後、夫妻は3泊4日の日程で、北海道を周遊した。心身を癒す旅。ここで村井は胸に秘めてきた思いを打ち明けた。
「途中棄権で終わりというのは…。もう一度マラソンを走って、区切りをつけて欲しい」
北京でたどり着けなかったゴールへ、故郷・松山市で挑戦は始まった。実業団に入って10年。視線の先には「世界」を見据えてきた。米・ボルダーや中国・昆明で高地合宿を行い、脚に張りを感じれば、トレーナーがほぐしてくれた。だが、「東京」に向けた挑戦では違った。練習メニューを作るのは、かつて実業団の長距離選手だった夫。無事にスタートラインに立つことが第一だから、むやみに追い込まない。平日は母親のひな子さん(60)がタイムを取り、給水を手伝った。「手作りマラソンなんです」。村井さんの言葉だ。
地元での調整は、大学3年のときに走った初マラソン以来。かつての自分との違いにイライラも募ったという。だが、土佐は、いまある環境でどこまで戦えるのか、を楽しもうとも思って取り組んだ。“ママさんランナー”としての復帰も視野に入れているから。そんな土佐の気持ちを汲んだ所属先から契約更新の話ももらった。だから「ラストラン」とは言わない。
「東京」では5キロ過ぎに転倒した。それでも必死に前を追った。30キロ地点で6位。ここから3人抜いた。40キロ以降ではメンバー最速だった。3位。優勝には届かなかったが、「後半勝負でしか自分の持ち味は表現できない。そこは外せないかな」。真骨頂の粘りをしっかりと表現し、目標とした2時間30分も切った。「最後まで粘って走れた。悔いなくひと区切りできます」。最後には晴れやかな笑顔が広がった。=敬称略(昌)