次世代に伝えるスポーツ物語一覧

プロ野球・ビクトル・スタルヒン


 「須田博(すだ・ひろし)」。彼が使った日本名である。戦時下、野球を続けていくためには本名を名乗ることは許されなかった。さらには野球を取り上げられ、収容所生活まで送らざるを得なかった。シーズン42勝を挙げた誰もが認める野球選手であり、戦後も含めてプロ野球史上初の300勝投手とまでなった男であるのに…。
 彼の名前は、ビクトル・ウィジャー・スタルヒン。1916年にロシアで生まれた。白系ロシア人のスタルヒン一家は、翌年に起きたロシア革命で迫害され、祖国を追われた。放浪の末、1925年に日本へ亡命し、北海道・旭川に移り住んだ。小学校から野球をはじめ、旭川中学を2年連続、全道中学校野球大会の決勝へ導いた。
 スカウトの目にとまったスタルヒンは1934年、日米対抗野球の全日本チームに引き抜かれ、中学を中退し、上京。1936年に東京巨人軍(現・読売巨人軍)に入団し、プロ生活をはじめた。
 191センチもの長身と全盛期には160キロは出ていたという速球、そして低めのコントロールを武器に、1937年秋にはシーズン最多となる15勝を挙げ、1940年まで連続して最多勝を挙げた。1939年には年間42勝という、現在までも稲尾和久と並ぶシーズン記録を作った。だが、戦争の激化とともに1944年9月にプロ野球は中止に追い込まれ、スタルヒン自身、「敵性人種」として軽井沢の収容所に抑留された。
 戦後はGHQで通訳をしていたが、1946年に元巨人監督で、パシフィックの監督となっていた藤本定義に誘われてプロ野球に復帰。1955年9月4日に史上初の通算300勝を達成した。同年引退、通算成績は303勝176敗だった。完封勝利「83」はいまだに破られていない。1959年に自動車事故で40歳の若さで不慮の死をとげた。1960年に競技者表彰の第一号として野球殿堂入りを果たした。
 これだけの活躍をなし遂げ、人から認められながらも、たどってきた激動の人生はスタルヒンの心に大きな刻印を残した。スタルヒンはどんなときにも笑みを絶やさなかったという。これらは、幼少期の放浪、プロで活躍しながらも陰ひなたに浴び続けた差別が作った自己防衛の所産だったのではなかろうか。そんな思いが影響したかしないか、スタルヒンは亡命してから死ぬまで、帰化する機会はあったはずだが、無国籍で通した。
 だが、秋田県横手市に妻、高橋久仁恵とともに眠るスタルヒンは、いまでも日本人の心にしっかり残っている。旭川市では1984年、郷土の大投手の名前を取った「スタルヒン球場」がオープンした。正面には「スタルヒンよ永遠に」と書かれたプレートが添えられた銅像も建てられた。こうしてスタルヒンに見守られながら、球児たちはいまでもこの球場で熱い戦いを繰り広げている。第二のスタルヒンを目指して。=(銭)