柔道・井上康生
「父に憧れ柔道を始め、柔道にすべてを賭けた。長いようであっという間。アテネが終わってつらいことや悔しいこともあったが、柔道人生に本当に悔いはない」
2008年4月29日、全日本柔道選手権。五輪と世界柔道選手権の開催年には重量級の代表選考会を兼ねる大会でもある。過去に3連覇を果たしたこともある井上は03年以来、優勝から遠ざかっていたものの、北京五輪出場のためには絶対に負けられない試合だった。しかし井上は準々決勝で敗れ、五輪3大会連続出場を逃す。数日後、正式に引退を表明した会見で自身の競技人生をこう総括した。
5歳で、柔道五段の父、明に憧れて柔道を始めた井上は、すぐに才能を開花させ、わずか8カ月で宮崎県のチャンピオンに。小中高校のすべてで全国制覇を果たし、96年には17歳という若さで全日本柔道選手権に出場。23歳で世界選手権、五輪(2000年シドニー大会)、全日本選手権で頂点に立ち、三冠を達成した。
井上の絶頂期は何といってもシドニー五輪だったろう。男子100キロ級に出場し、オール一本勝ちで金メダルを獲得した。表彰式には、前年に急逝した最愛の母、かず子の遺影を高々と掲げ、母親思いの優しい一面も見せた。翌01年から全日本選手権で3連覇、世界選手権も99年から3連覇という大記録を樹立するなど、まさに敵なしだった。
だが、2連覇を目指したアテネ五輪では、準々決勝でバンデルギーストに背負い投げで一本負けを喫し、敗者復活戦でも一本負け。その後、「100キロ超級でもう1度、世界を目指す」と階級を上げ、自らにハードルを課した。アテネ五輪柔道男子100キロ超級金メダリストの鈴木桂治や棟田康幸に加え、北京五輪柔道男子100キロ超級金メダリストの石井慧ら好敵手がひしめく重量級。以前にも増して五輪出場は狭き門となった。
ライバル達に加え、自身の怪我とも闘いながら臨んだ2008年の全日本選手権だった。アテネ五輪後、右大胸筋腱断裂という致命傷を負っていた井上にとって、右の釣り手ができなくなったことで、井上の“代名詞”ともいえる内股が出せなくなったのは痛かった。それでも井上は前年の世界選手権で負けても自分を信じ、変わらぬ声援を送ってくれたファンや周囲のために、最後まで「攻めの柔道」「一本を取りに行く柔道」を貫いた。
今や世界の潮流は変わり、武道に端を発した日本発祥の「柔道」はスポーツ性がより高まった「JUDO」になったともいわれる。細かいポイントを稼いで相手への指導を狙った戦いがよしとされ、実際に石井は泥臭い柔道スタイルで五輪王者になった。どちらが正しくてどちらが上か、という問いに対する答えは容易には出せないが、井上の柔道は「柔よく剛を制す」を体現した美しさがあった。
現在は英国に留学し、現地で柔道指導にも携わる井上。今後も「柔道」を世界に広める重要な役割を担っていく。=敬称略(有)