柔道・野村忠宏
当然の事ながら、五輪で金メダルを取ることは難しい。2連覇することはさらに難しく、一流のアスリートでもごく限られた者だけがその偉業を成し遂げることができる。昨年の北京五輪で、日本勢では“お家芸”といわれる柔道や女子レスリング陣、そして競泳の北島康介が五輪2連覇を達成した。一度頂点を見た者が再度頂点を目指すことは肉体的にも精神的にも困難を極め、4年に一度となればなおさらだ。だからこそ大きな賞賛に値する。それだけの偉業を超える五輪3連覇を日本人で唯一達成したのが、柔道の野村忠宏だった。
野村は柔道一家に生まれた。祖父が柔道道場の館長、父は名門・天理高校の柔道部の監督、さらに身内にはミュンヘン五輪の金メダリストもいた。血筋は超一流だが、小さい頃から体は小さくひ弱で、家族から柔道を強制されることもなかったという。しかし、だからこそ柔道にひたむきに打ち込んでいったのだろう。高校3年生で県大会優勝、全日本ジュニア体重別選手権で準優勝など次第に才能を開花させ、天理大4年のときにアトランタ五輪への出場を果たした。まだ無名の存在、「成田空港のロビーでテレビのカメラマンに突き飛ばされた」という屈辱的な経験も発奮材料になったのか、初めての大舞台では圧倒的な強さを見せて一つ目の金メダルを獲得した。
アトランタ五輪後は、「次の目標が定まらず、練習にもまったく身が入らない」状態が続いた。それでも自らを発奮させる術を心得ていた。ミキハウスに所属したことでプロ意識が芽生え、再度五輪の頂点を目指す。2000年のシドニー五輪で悲願の連覇を達成。その後は完全に柔道から離れ、米国に拠点を移した。普通の選手であれば、これで現役として競技と向き合う姿勢はしぼんでいったに違いない。
しかし野村の柔道への情熱、五輪への思いは消えていなかった。2年のブランクは予想以上に過酷だったに違いない。それでも沸々とたぎる思いには逆らえないのが類い希な“格闘家”だからこそか、「プレッシャーのない中で寂しくなってきた」と練習を再開すると、「最後の五輪」という覚悟で挑んだ2004年アテネ五輪への出場権を手にし、本番では得意の背負い投げや大内刈りを決めて見事に3つ目の金メダルを手中にした。
世界でも3人しかいない五輪4連覇へ。北京五輪前年に膝の靱帯を完全に断裂し、選手生命の危機に直面したが、手術より五輪出場を優先したのは「今度こそ最後(の五輪)だから膝がつぶれても構わない。4連覇は自分にしかできない」という強い気持ちの表れでもあった。しかし、翌年4月の北京五輪代表選考会で敗れ、北京の地に立つことすら叶わず、4連覇の夢は潰えた。
野村は北京五輪代表選考会で敗れた3週間後、右膝を手術した。五輪4連覇がもはや叶わない中での手術の意味は…。「もう1回勝負できるなら、強い膝を作り直したい」。この一心で、現在も辛いリハビリと日々向き合っている。情熱はまだ燃え尽きてはいない。=敬称略(有)