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陸上・三段跳びの伝統を守った南部忠平


 “第3の男”が脚光を浴びることになるのだから、やはり五輪は劇的だ。1932年ロサンゼルス五輪男子三段跳び。出場した日本トリオの中では3番手の実力だった南部忠平が金メダルを獲得する。早大在学中の前回1928年アムステルダム五輪の同種目で4位入賞を果たしたとはいえ、その後は走り幅跳びに専念していた南部にとって、本職は走り幅跳び。しかも7メートル98の世界記録を持っていただけに、専門種目への思いは強く、周囲の期待も大きかった。だが、その走り幅跳びでは3位に終わる。落胆は想像に難くない。そんな中で迎えたのが三段跳びだった。
 前回五輪に続き、連覇を狙った織田幹雄が大会前に足を故障し、万全とはほど遠い状態。続く大島鎌吉もロス入り後に風呂場での事故で腹や足にやけどを負っていた。故障の織田はやはり力を発揮できずに予選落ち。包帯が取れたばかりの大島鎌吉は決勝に残ったものの、多くを望める状態ではなかった。残るは28歳の南部。織田は「頼むぞ、忠さん」。こう言い残してピットを後にしたという。
 開き直りもあったのだろう。期待を一身に集めながらも、南部は不思議と落ち着いていた。そして冷静な判断は助走に表れた。大学4年時に百メートルを10秒8で走ったスピードの持ち主。だからこそスピードがつき過ぎて腰が砕けぬよう、38メートルの助走距離を25メートルに縮めた。札幌市出身。冬場も雪の上を走ることで鍛えた足腰を武器に、持ち前の跳躍力を生かしてホップ(1歩目)で稼ぐ作戦に出た。そして迎えた決勝の2回目で、15メートル72の世界新記録をマークする大跳躍を演じた。うち6メートル29をホップで稼いだという。大島も15メートル12で健闘の銅メダル。前回アムステルダム五輪で織田が切り開いた三段跳びの伝統をしっかりと守り抜いた。
 引退後、南部は大阪毎日新聞運動部長や64年東京五輪陸上日本代表監督などを歴任した。そして故郷、札幌の円山競技場に立つセンターポールの高さはこのときの優勝記録15メートル72。このポールは「南部ポール」と呼ばれている。=敬称略(昌)