次世代に伝えるスポーツ物語一覧

ラグビー・北島忠治


 67年もの長きにわたり、明治大学ラグビー部監督を務めた名伯楽・北島忠治が監督人生を通じて選手に伝えてきた言葉がある。「前へ」。重量フォワード陣がパワーでゴールを目指すスタイルはまさに「前へ」を体現したもので、明治スピリットを象徴する言葉だ。
 北島は明治大学でラグビーと出会う。とはいっても、元々は相撲部に所属しており、大学2年時に部員不足だったラグビー部の試合にフォワードとして出場したのが始まりだったという。1929(昭和4)年に大学を卒業するのと同時にラグビー部の監督に就任。直後から明治ラグビーに全精力を注ぎ、私財を投じることも厭わなかった。第二次世界大戦直後の47年、ラグビー部の合宿所が火事で全焼してしまい、選手たちが住むところを失ってしまったときには、「家の一軒くらい惜しくない」と新潟の実家を売り払い、翌年、合宿所を建て直した逸話が残る。
 明治はこの不運にもめげず、ほどなくして強豪校の一つに名を連ねるようになる。しかし、ときは大学ラグビーの戦国時代。早稲田に慶応、法政、日体大…。ライバルがひしめく中、頂点をつかみ取るのは容易ではなかった。特に、当時最大の好敵手だった早稲田・大西鐵之祐監督の「接近・展開・連続」理論は北島とは真逆の方向性を示すもので、北島の戦略が「時代遅れの化石」と批判されることもあった。だが、北島は「苦しいときこそ、明治大学のラグビーを貫き通すべきだ」と頑なまでに自身のスタイルを変えなかった。「躊躇せず突進せよ」「全速力でプレーせよ」「最後まであきらめるな」などと選手に攻める姿勢を伝え続けた。その結果、72年に大学選手権で初優勝、76年には社会人チームも倒して日本選手権制覇、という快挙を成し遂げた。北島の「信念」が実を結んだ結果だった。90年代には対抗戦優勝8回、大学選手権優勝5回・準優勝3回と圧倒的な強さを誇り、明治に黄金期をもたらす。
 北島は96(平成8)年、95歳で「現役」のまま、亡くなった。生前、世田谷の自宅には、北島を慕って訪ねる選手やOBが引きも切らなかったという。その自宅は、前述の火災から12年後に、選手たちがお金を出し合って合宿所のわきに建てたものだった。監督として、そして人間として尊敬された北島の「前へ」の教えは、社会に恥じない人間としての生き方を示す哲学でもあった。=敬称略(有)