次世代に伝えるスポーツ物語一覧

野球・「フォークの神様」 杉下茂


 日本人として初めて大リーグでプレーしたのは1964年、野球留学中にサンフランシスコ・ジャイアンツのマウンドに上った村上雅則だった。だが、その村上よりも10年以上前に、本場の野球関係者の注目を集めた男がいる。日本で初めてフォークボールを武器にして一世を風靡し、「フォークボールの神様」とうたわれた杉下茂だ。
 杉下とフォークボールの出会いは明治大学時代。人差し指と中指の間にボールを挟んで投げることで球の回転を抑え、タテに大きく変化するフォークボールはそのころの日本ではほとんど知られていなかったが、杉下はこの変化球の投げ方を、当時の天知俊一監督から教わった。しかし、3年秋のリーグ戦で初めて試合で試したところ、ぼてぼての当たりが内野安打になり、大学時代は「縁起が悪い」と封印したという。
 中日ドラゴンズ入団後は密かにフォークボールも投げていたが、転機になったのはプロ3年目を迎えた1951年、米国3Aのサンフランシスコ・シールズの春季キャンプに参加したことだった。巨人の川上哲治、阪神の藤村富美男、松竹の小鶴誠と渡米した際、真剣さがひしひしと伝わる練習の雰囲気に後押しされ、フォークボールを思いきり投げ込んだところ、本場の選手が次々と空振り。「練習にならない」とフォーク禁止令が出されるほどで、杉下は“魔球”に対する自信を深める。同時に、日本球界に、杉下がフォークボールを投げるとの情報が知れ渡った。
 帰国後、杉下は全盛期を迎える。そのフォークボールは、打撃の神様といわれた川上に、「キャッチャーが捕れない球を打てるか」と言わしめたと伝えられる。圧巻だったのは1954年。ペナントレースで32勝を挙げ、投手部門のタイトル独占を果たした。日本シリーズでも3勝を挙げる大車輪の活躍で、中日を初の日本一に導いた。
 引退後は中日、阪神の監督、巨人のコーチなどを歴任し、臨時コーチとしても、多くの選手を指導。今年も中日のキャンプで臨時コーチを務め、その教え子は数知れない。野茂英雄、佐々木主浩、そして現在では上原浩治、黒田博樹ら、大リーグの舞台に立つ多くの日本投手がフォークボールを武器にしている。杉下がその威力を伝えたフォークボールは、日本球界にしっかりと息づいている。=敬称略(謙)