サッカー・ネルソン吉村
サッカー日本リーグのヤンマーディーゼル(現在のセレッソ大阪)で、リーグ最多となる得点王7回、通算202得点を挙げ、日本が銅メダルを獲得した1968年のメキシコ五輪でも得点王に輝いた希代のストライカー、釜本邦茂。釜本がこれだけの大記録を樹立するために、アシストで最も“貢献”したチームメートが、ブラジルからやってきたネルソン吉村だった。
吉村は1947年8月16日、サンパウロ州トッパン市で熊本出身の父、則義と日系2世の母の間に生まれた。ブラジルはいわずと知れたサッカー王国で、吉村が暇さえあればストリートサッカーに興じるようになったのは自然の流れだった。則義は「とにかく球蹴りが好きな子だったから、何とかこの道で成功させたかった」と願っていたが、その願いは吉村が19歳のときに、突然叶うこととなった。当時ヤンマーはブラジルに自社工場を持っており、吉村はそこで働いていた。折しも、ヤンマーディーゼルサッカー部から、若くて技術のある日系人をスカウトする話が持ち上がっていた。地元日系人サッカークラブでの活躍が認められた吉村は、晴れて日本リーグの外国人選手1号となる。
当時、ヤンマーサッカー部は日本リーグに65年度から参戦していたが、初年度は8チーム中7位、66度年は最下位と低迷していた。しかし67年、吉村の獲得に加え、早大から釜本が入団した年からヤンマーの潮目が変わった。豪快なシュートが持ち味の釜本に、ブラジル仕込みのテクニックが光る吉村。吉村の柔らかいトラップを釜本がとらえ、ゴールを量産した。チームは68年に2位、そして71年には悲願の初優勝を果たし、2人はヤンマー黄金期の立役者となった。
70年には、日本サッカー協会の要請で日本国籍を取得し、「吉村大志郎」として第二の人生をスタートさせた。間もなく日本代表に選出され、45試合で7得点を上げる活躍を見せた。来日当初は「1年で帰る」と決めていたというが、日本と日本サッカーへの愛着が勝り、引退後も日本での生活を選んだ。56歳で急逝する直前まで、セレッソ大阪のスカウトとして大久保嘉人ら多くの逸材を発掘。釜本は、「ヤンマーのいい時代を2人でつくった仲間。本当に残念」と盟友の死を悼んだ。
吉村の日本での成功に影響を受け、日系人やブラジル人が次々に来日した。今では、日本国籍を取得して日本代表で活躍する、あるいはしてきた選手も少なくない。吉村は「あの時代を精いっぱい生きた。僕がいい加減にプレーしていたら次はなかった」と話していたという。=敬称略(有)