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大相撲・大鵬


 モンゴル出身力士、日馬富士が先日の夏場所で初優勝を飾った。近年の海外出身力士の活躍は目覚ましい。2006年1月の栃東以後、優勝はことごとく海外出身力士だ。とはいえ、国技とも言われる相撲が昔から純血だったわけではない。「巨人、大鵬、卵焼き」。子供の好きなものを並べた1961年の流行語だ。この中で、長嶋茂雄や王貞治らが活躍していた読売巨人軍、子供の国民食とも呼ばれた卵焼きと並び称された“人間”が、双葉山と並んで歴代最強といわれる、ウクライナ人を父とするハーフ力士、大鵬だった。
 その強さは圧巻だった。1960年1月の初入幕から6場所で大関昇進を果たし、翌9月場所後に柏戸と共に横綱昇進を果たした。以来、柏戸とともに柏鵬時代を築く。1962年7月場所から翌年5月場所までと、1966年3月場所から翌年1月場所までの2回の6連覇を果たした。入幕から1971年の引退まで、毎年一回は優勝するという史上唯一の記録を成し遂げ、通算優勝回数32回、幕内での通算勝率8割3分8厘(746勝144敗)はいまにも残る金字塔だ。
 だが、流行語となるまでの道のりが決して恵まれていたわけではない。樺太で生まれ、終戦後に母の故郷の北海道へ引き揚げた。貧しい母子家庭で北海道内を転々とし、納豆を自ら売って小遣いの足しとした。中学卒業後、営林署に勤め、休憩時間に取った相撲の強さが評判となって角界への道が開けて行ったという。
 色白の長身、端正なマスクから、女性や子供に絶大な人気を誇った。特に大鵬の取り組みのときは銭湯の女湯がカラになったとも。しかし、相手に応じた柔軟な取り口は、逆に好角家からは「型がない」と批判され、男性からの人気はライバル・柏戸に分があった。
 1968年9月から翌年3月にかけて、現在でも歴代3位となる45連勝を記録する。だが、連勝を途切れさせた前頭3枚目の戸田との対戦は実は、大鵬の左足が土俵を割る前に戸田の右足が先に出ていたことがのちに判明した。しかし負けは負け。近藤唯之著の「名人たちの世界」によれば、大鵬はのちに、「1カ月ほどたって戸田と巡業先で会ったとき、戸田が、本当はボク負けていたんですというから、勝った者がそんなこといっちゃあいけないよと、叱っておきましたよ」と語っている。大鵬も立派な男であった。
 1971年5月場所5日目、大鵬の取り組み相手は、角界のプリンスと呼ばれ、売り出し中の貴ノ花(初代)。登り竜と下り竜の対戦。大鵬はいいところなく、寄り倒しで敗れた。世代交代は一瞬にして起きる。大鵬が引退を決意したのはその晩だった。=敬称略(銭)