次世代に伝えるスポーツ物語一覧

野球・沢村栄治


 日本にプロ野球が誕生する直前の昭和9年秋。米国からメジャーリーガーを招いて行われた日米野球で、本場のスター選手たちをきりきり舞いさせる快投を演じた投手がいた。当時17歳の沢村栄治。京都商業(5年)を中退して臨み、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックといった強打者を相手に、9奪三振。11月20日、静岡・草薙球場で行われた第8戦でのことだった。
 それまで全日本は7戦全敗。しかも1試合当たりの平均得点は全米選抜の11点に対し、日本は1・9点と圧倒されていた。スタンドを埋め尽くした観客は初めて見る本場のプレーに酔いしれるとともに、そのレベル差も痛感させられていた。それだけに沢村の快投は、喝采をもって迎えられた。7回にゲーリックに内角高めの球を右翼スタンドに運ばれて、試合自体は0-1で惜敗したものの、完投して許した安打はわずかに5本。互角以上の内容だった。試合後、ルースは「太陽の光が目に入ってボールがよく見えず、沢村に名をなさしめる結果になった」と話したというが、同時に「沢村の出来が素晴らしくよかったのだから仕方がない。慢心せずに努力を積めば、必ずや大投手になるだろう」と付け加えたという。
 メジャーリーガーを相手に、その存在を轟かせた沢村は、日米野球後に設立された巨人軍に入団。剛速球を武器にエースとして活躍し、昭和11年にプロ野球初のノーヒットノーランを達成。翌12年と15年にもノーヒットノーランを記録した。しかし、戦争が沢村に暗い影を落とす。昭和18年、当時絶大なる人気を博していた東京6大学野球や社会人野球が中止に追い込まれたのに続き、翌19年9月にはプロ野球も休止。その間に沢村は2度出征し、ボールより重い手榴弾の投げ過ぎで肩を壊したほか、左手にも被弾し選手生命を絶たれた。
 巨人退団後、3度目の招集を受け、昭和19年12月2日、台湾沖で乗っていた輸送船が米国の潜水艦に沈められ、短い生涯を終えた。享年27歳。
 巨人での実働は5年間で、63勝22敗、通算防御率1・74。背番号「14」は永久欠番。そしていまもなお沢村の名は色あせることはない。彼の名を冠した沢村賞は、プロ野球でシーズンを通して活躍した先発完投型の本格派投手に贈られ、投手にとって最高の栄誉となっている。=敬称略(昌)