次世代に伝えるスポーツ物語一覧

重量挙げ・三宅義信 東京五輪金メダル第1号


 高度経済成長期の日本が、世界に復興をアピールする舞台ともなった1964年東京五輪。日本は金メダル16個を含む計29個のメダルを獲得し、国民を熱狂の渦に巻き込んだが、日本に最初の金メダルをもたらし、流れを呼び込んだのが重量挙げフェザー級の三宅義信だった。
 三宅が重量挙げを始めるきっかけとなったのは宮城県の大河原高校2年のときに開催された1956年メルボルン五輪。バンダム級で同じ東北出身の高校生、古山征男が8位になったことを知り、重量挙げという競技に関心を持った。他の高校に用具があると分かればそこまで押しかけるほどのめり込むと、才能はすぐに開花。法大3年で迎えた1960年ローマ五輪ではバンダム級に出場し、重量挙げで日本初のメダルとなる銀メダルを獲得。だが、この偉業も三宅の競技人生にとってはプロローグに過ぎなかった。
 ローマ五輪直後に、三宅は4年後に世界の頂点に立つための強化計画を立てる。五輪で勝つには心技体の全てが重要だが、銀メダリストに周囲が期待するのは金メダルのみ。しかも母国開催。プレッシャーは並々ならぬものがある。体力、技術面もさることながら、三宅が重視したのは精神面だった。実力は十分だっただけに「自分の平素やっている通りにやればいい」。時には滝に打たれ、座禅を組み、勝負の時に備えた。
 そして迎えた東京五輪。重量挙げフェザー級の開催日が大会3日目の10月12日という早い時期に組み込まれたのは「三宅は必ず金メダルを獲る」との計算から、開催国である日本に流れを引き寄せるためだったとされる。その大舞台で三宅は計9回の試技を全て成功させ、世界新記録となるトータル397.5キロで優勝。国民の期待にこれ以上ない結果で応えてみせた。
 三宅はその4年後のメキシコシティー五輪でも、体調を崩しながらも精神力の強さをみせつけ、2連覇を達成。72年ミュンヘン五輪でも4位となるなど、長年にわたり日本重量挙げ界を支えた。メキシコシティー五輪では同じフェザー級で弟の義行氏も3位に入り、兄弟でメダル獲得という快挙を成し遂げた。引退後は、日本ウェイトリフティング協会副会長などを歴任。現在はNPO法人「ゴールドメダリストを育てる会」理事長として、スポーツ環境の充実に尽力する。一方で、姪の宏美がアテネ五輪、2008年北京五輪に出場するなど、世界の舞台で活躍。そのDNAは受け継がれている。=敬称略(謙)