次世代に伝えるスポーツ物語一覧

アーチェリー・山本博

 2009年5月17日。静岡県掛川市で行われたアーチェリーの世界選手権最終選考会。この大会で46歳の山本博が2位タイとなり、世界選手権への出場権を獲得した。「すげえな、46歳!」。世界最多となる世界選手権出場14回を果たした瞬間、山本は自分をこう称えた。
 山本がアーチェリーと出会ったのは横浜市立保土ヶ谷中学校時代にさかのぼる。欧米では人気のあるアーチェリーだが、日本では「弓道部」の方が競技人口は多く、中学校で「アーチェリー部」があるところは今でも少ない。そんな環境の下、山本は早々とアーチェリー界で頭角を現す。横浜高校時代はインターハイ3連覇、日体大でもインカレ4連覇を達成し、向かうところ敵なしだった。日体大3年時の1984年には、ロサンゼルス五輪で五輪初出場ながら、男子個人でいきなり銅メダルを獲得する。しかしその後は決して順風満帆とは言えなかった。続くソウル五輪(88年)で8位に入賞したものの、バルセロナ五輪(92年)は17位、アトランタ五輪(96年)では19位に沈んだ。30歳を越えてから、視力が衰え、風が以前ほど読めなくなったと悩むようになる。シドニー五輪(2000年)は国内予選で敗れて出場さえ叶わなかった。
 だが、転機はまた訪れる。41歳で臨んだアテネ五輪(04年)。あれよあれよという間に決勝まで進んだ。決勝でマルコ・ガリアッツォ(イタリア)に敗れたが、堂々の銀メダル。20年ぶりのメダル獲得となった。決勝までの6試合で対戦した相手選手の平均年齢は21.5歳だったという。山本は「年寄りが若い選手を相手に次々と勝っていく。このギャップが日本の人たちだけでなく世界の人々にも感動を与えたようです」と振り返る。年齢だけでなく、教員生活との二足のわらじで練習環境も万全とはいえなかった中での快挙だった。自らを「中年の星」と称し、他競技の選手からも「山本先生」と慕われるその人柄は一躍、アテネの顔となった。
 「20年かけて銅から銀へとなりました。これから20年かけて金を目指します。世界一あきらめの悪い男ですから…」。この言葉は決して誇張ではない。そう誰よりも信じているのは山本自身に違いない。=敬称略(有)