次世代に伝えるスポーツ物語一覧

ボクシング・具志堅用高


 「ちょっちゅねー」。
 こんな言葉だけで誰だかがわかるとは奇特なご仁である。しかし、そのユーモラスな言動と温和な人柄とは裏腹に、世界タイトル13度連続防衛という戦績は日本ボクシング界にいまなお金字塔として輝く。
 日本の西端、沖縄・石垣島生まれ。中学卒業後、沖縄本島の興南高校へ進む。風呂屋に下宿して風呂掃除を手伝ううち、抜群の運動神経が周囲の目を引き、勧められるままボクシング部に入部、ボクシングをはじめた。才能は開花し、高校3年のインターハイ・モスキート級で優勝。拓殖大への進学が決まっていたが辞退し、東京・協栄ボクシングジムに入門。1974年5月28日に早くも18歳にしてフライ級でプロデビューを果たした。デビュー戦は4R判定勝ち。生涯に挙げた24勝のうち15勝がKO勝ちという爆発的な強さを誇った戦績の割には地味な出だしとなった。
 しかし、千里の道も一里からである。その後はほぼKO勝ちを続け、途中、新設されたジュニアフライ級に転向。デビューからわずか2年5カ月、第9戦目にして、ファン・グスマン(ドミニカ)をKOで破り、WBA世界ジュニアフライ級の王座に就く。デビューからタイトル獲得までの当時の日本最短記録であった。
 「ワンヤ、カンムリワシニナイン(自分はカンムリワシになりたい)」
 タイトルを獲得したときの一言から、石垣島や西表島で生息している天然記念物・カンムリワシが異名となった。また、この言葉は、当時復帰まもない沖縄県の出身者として「ヤマトンチュ(大和人)に負けるか」とハングリー精神でがんばり続けてきた心の発露だったのかもしれない。
 「初防衛戦がもっとも厳しかった」と具志堅がのちに語るように、ハイメ・リオス(パナマ)との初防衛戦は、攻める側から守る側への心の切り替えがうまくいかないまま、15Rフルに戦ってかろうじて判定(2-1)でかわした。しかし3度目から8度目までの6度は連続KO勝ちをおさめ、1979年の1年間に4度防衛に成功するなど数多くの日本記録を残した。1980年10月12日、ペドロ・フローレス(メキシコ)相手に15R判定勝ち(3-0)で13度目の防衛を果たした。しかし、4年もの間世界戦を戦い続けることは具志堅の心身双方にとてつもない負担を強いていた。
 14度目の防衛戦は、前回と同じペドロ・フローレス。ついに12RKO負け。奇しくも故郷・沖縄での凱旋試合だった。まだ25歳の若さだったが、矢が折れたアフロヘアの男は二度とリングに立つことなく、潔く引退の道を選んだ。=敬称略(銭)