陸上・田島直人
「オリンピックオーク」(ヨーロッパナラ)と呼ばれた1本の木が京大農学部グラウンドの片隅に大きな枝を広げていた。田島直人が、1936年ベルリン五輪の陸上三段跳びで金メダルを獲得した際に贈られた苗木を、母校に植えたものだ。残念ながら害虫被害で枯れ始め、他の樹木への被害を防ぐために2008年12月に伐採されたが、田島はこの“カシワの木”を大切にしていたという。
田島にとってベルリンは2度目の五輪だった。32年のロサンゼルス五輪に19歳で出場したものの、走り幅跳びで6位。だが、このロサンゼルス五輪をきっかけに生涯の伴侶を得る。女子400メートルリレーに出場した麻(旧姓・土倉)だった。もっとも直接の出会いは五輪翌年、田島が京大に入学してからだったというが、縁の始まりはロサンゼルス五輪といっても過言ではない。五輪選手同士の結婚は話題にもなった。
婚約はベルリン五輪前。気持ちを新たに練習に励んでいた田島だったが、専門は走り幅跳びで、五輪3連覇のかかる三段跳びでは3番手に位置づけられていた。ロサンゼルス五輪銅メダルの大島鎌吉、京大の同僚で好調だった原田正夫への期待の方が大きかったのだ。そんな周囲の見方とは別に、田島自身は「この年のコンディションをすべて8月初旬に最上になるようもっていった。…8月にはかならず16メートル跳べるという自信が出てきた」(『おれでもやれる』=講談社刊)。肉体的にも精神的にも充実していたようだ。
迎えた本番の舞台。ピークをこの日に持って行くよう努力を重ねてきた田島は、自らが感じていた心身の充実ぶり通りに結果を残した。決勝4回目で16メートル00を跳躍し、世界新記録(当時)で、織田幹雄、南部忠平に続く三段跳び日本3連覇を成し遂げた。五輪記録映画「民族の祭典」の監督レニ・リーフェンシュタールは「あなたの三段跳は跳躍ではなく飛躍」と絶賛したほどだったという。このとき旧制高校からのライバル原田(田島は山口高=現・山口大、原田は七高=現・鹿児島大)も銀メダルを獲得。京大生による1、2位独占ともなった。さらに田島はこの五輪で、走り幅跳びでも銅メダルに輝く大活躍を演じた。
現役引退後は、64年東京五輪などで陸上代表チームのコーチを務めるなど、後進の指導にも尽力、陸上界発展に寄与した。山口では田島の功績を称え、その名前を冠した競技会も行われている。そして田島が大切にた「オリンピックオーク」。その木から採れた実を発芽させて育てた苗木は岩国高校や山口高校など、ゆかりの地に植樹され、いまも後進たちに温かい目を注いでいる。=敬称略(昌)