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競泳女子・柴田亜衣「アテネのシンデレラ」


 「夢かと思いました」。日本中が驚いた。本人も驚いた。2004年アテネ五輪の競泳女子八百㍍自由形。驚異的な追い上げで最後のターンを終えて先頭に躍り出ると、そのまま逃げ切り、ゴール。1964年東京五輪と並ぶ日本最多の金メダル16個を獲得したアテネで、最大のサプライズとなったのは、日本女子自由形に五輪初の金メダルをもたらした柴田亜衣だった。
 3歳で水泳を始めた柴田だが、アテネ五輪までは、世界はおろか、日本でも同学年のエース、山田沙知子の陰に隠れ、日本選手権での優勝もなかった。だが、練習は裏切らない。徳島・穴吹高時代は、午前5時からの早朝練習と夕方からの練習を合わせ、1日に17㌔の泳ぎ込みで鍛えた。そして進学先の鹿屋体育大で田中孝夫コーチと出会う。豊富な練習量は大学でも減ることはなく、02年パンパシフィック選手権、03年世界選手権で日本代表入りするまでに成長。そしてアテネ五輪を翌年に控えた03年10月、「俺に命を預けろ」と迫る田中コーチに、「命、預けます」。猛練習に拍車がかかり、一気に才能が開花した。大学4年にして自己ベストを次々と塗り替えた末の栄冠だった。
 決勝のレース前、田中コーチは柴田に「慌てず、焦らず、諦めず」とアドバイスした。遅咲きの柴田にとって、その言葉はまさに競技人生を象徴する言葉だったといえよう。
 柴田はその後、大学院に進学するとともにデサント社に就職し、競技生活を続行。北京の表彰台を目指したが、その道程は金メダリストの重圧や腰痛との戦いなど、極めて過酷なものとなった。北京直前には、英スピード社の高速水着レーザー・レーサーをめぐる騒動が起こり、デサント社社員として水着の選択にも悩まされた。その結果、北京五輪では四百㍍、八百㍍とも予選落ち。アテネとはあまりに対照的な結果に終わった。
 昨年12月、引退を表明。アテネからの4年間を振り返り、「金メダルがこんなに重いものなんだと感じました」と涙を浮かべながら語った。“第2の人生”を歩み始めた柴田だが、もちろん自らを鍛え育ててくれた大好きな水泳といい関係を作って行くに違いない。=敬称略(謙)