次世代に伝えるスポーツ物語一覧

テニス・伊達公子


 1996年7月4日、テニスの聖地、ウィンブルドン女子シングルス準決勝戦。栄誉あるセンターコートで当時の女王、シュテフィ・グラフに果敢に挑む日本人選手がいた。日本のエース、伊達公子(本名・クルム伊達公子)。この準決勝の2カ月前には、東京で開かれた女子国別対抗戦・フェドカップでグラフを7-6、3-6、12-10で破る大金星を挙げたばかり。そのままの勢いでウィンブルドン準決勝まで勝ち上がった。第1セットは6-3でグラフに先取されたものの、第2セットは6-2で取り返した。誰もが東京の試合の再来を期待したが無情にも日没順延となり、翌5日の第3セットをグラフに取られ、日本人初の4大会決勝進出はかなわなかった。しかし、日本人選手が世界の頂点に最も近づいた歴史的な試合だった。
 伊達は小学校1年のとき、両親が通う近所のテニスクラブでテニスを始めた。6年生で滋賀県に引っ越したのを機に、名門「四ノ宮テニスクラブ」に入門する。元デビスカップ日本代表チームコーチの竹内映二の父でクラブのオーナーでもある穣二から厳しい指導を受け、実力をつけた。園田学園女子高3年時には、インターハイでシングルス、ダブルス、団体優勝の三冠を達成。高校卒業後にプロに転向し、海外遠征を重ねた。
 伊達の武器は「ライジング・ショット」。相手の打ったボールが自分のコートでバウンドして頂点に来るまでの間に打ち返す、高度な技術が必要な技である。身長163センチとトッププレーヤーの中では小柄な伊達は、体格のハンデを技術で補った。世界トップ選手へと躍進し始めた頃の伊達は、得意技にちなんで「ライジング・サン」と呼ばれていたという。テニスの世界四大大会(全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン、全米オープン)シングルですべてベスト8入りし、全豪、全仏、全英ではベスト4進出を果たした。この記録は、今でも他の日本人選手の追随を許さない。
 1996年末に現役を引退した伊達が再び世間を驚かせたのは2008年4月。12年ぶりにツアープレーヤーとしてプロ復帰したのだ。しかし、復帰の理由はかつてのような野心だけではなかった。「世界と戦うためではなく、若い選手へ刺激を与えるため」。さらに01年に結婚したドイツ人レーシングドライバー、ミハエル・クルムの後押しもあってのことだった。とはいえ、国内大会でシングルス優勝を重ねるなどその実力は健在だ。
 2009年7月に刊行した伊達の新著「Challenge!!」の帯には、「やりたいことは、いつからでも始められる!」とある。まさにその言葉を伊達自身が体現している。=敬称略(有)