次世代に伝えるスポーツ物語一覧

マラソン・野口みずき アテネからロンドンへ


 第1回五輪マラソンでもゴール地点として使われた歴史あるパナシナイコ競技場に、ひときわ小柄な選手が一番で戻ってきた。ヌデレバ(ケニア)の猛追を振り切り、夕暮れの空に向けて左手人差し指を高々と突き上げてのゴール。野口みずき(当時26)が悲願の金メダルをつかんだ瞬間だった。
 気温が30度を優に超える過酷な条件の中、勇気をもって27㌔付近でスパートをかけた。身長150㌢、体重40㌔。小柄な体からは想像出来ない全身を弾ませるように走るダイナミックなストライド走法。もちろん体への負担は大きく、起伏の激しいこのコースにも不向きといった声もあった。だが、人一倍の練習で克服してのけた。
 競技への思いには理由がある。1998年10月、所属していたワコールの藤田信之監督が解雇され、監督を追って野口も退社した。京都市内のハローワークに通い、失業保険を受けながら練習に励む日々。仲間5人で生活費を出し合いながらの共同生活ではカボチャの皮できんぴらを作ったこともあったという。翌年春には所属先が決まったが、このときの思いが情熱を支えた。レース前日には、コーチが配布されたゼッケンに小さな穴を無数に作って即席のメッシュ地ゼッケンに仕上げた。少しでも涼しく走ってもらおうとの思いだ。困難をともに乗り越えたからこその信頼関係があった。
 ゴール直後、シューズに口づけした野口。「厳しいコースを一緒に走ってくれてありがとうと思ったから」。レース後は熱中症になり、頭の中が真っ白になった。記憶も定かでない。深夜には点滴も打ったほどだったが、それでも感謝の気持ちだけは忘れなかった。記者会見で今後のことを問われても「いつもと変わらないスタイルでいきたい」。
 その言葉通り、翌年のベルリンマラソンで2時間19分12秒の日本新記録で優勝。その後も史上初の女子マラソン五輪連覇を目指し、北京五輪代表切符も勝ち取った。だが、連覇を狙ったレース直前に左脚太ももの故障で出場を断念。それから1年、いまだ復帰に向けた道筋が定まらず、焦りを必死に押さえ込む日々を送っている。
 良くなりかけては無理にスピード練習を行っては再発させ、復帰を遠のかせる。そんな野口に、藤田監督は「このまま引退するか?」と自重を促したという。それほどに焦りは大きい。「こんなに長引いたのは初めて。やめたいと思ったこともある」。
 復活への道筋が定まらない苦悩の日々。そんな野口を勇気づけたのは北京五輪欠場のショックがまだ癒えない頃に届いた「大丈夫、落ち込まないで。あなたには脚があるんだから。絶対に治るから…」という手紙だった。
 手紙に接し、「ああ、そうだと気づかされました。曇りや雨の日はずっとは続かない。私の走りを待ってくれている人たちのためにも、早く元気な姿を見せたい」。31歳になった。それでも「まだ限界と思っていない。ロンドン五輪に向けて走りたい」。金メダル獲得後も、謙虚に真摯に走り続ける野口なら、必ず復活すると思っている。=敬称略(昌)