野球・アイク生原
野球が五輪の正式競技だったのは、1992年のバルセロナ五輪から2008年の北京五輪までのわずか5回。日本やアメリカ、中南米では国民的スポーツの野球も、世界的に見れば普及は進んでおらず、正式競技にするために世界中の野球人たちが奔走した。ロサンゼルス・ドジャースのオーナー補佐を務めていたアイク生原(本名・生原昭宏)も、その1人だった。
1937年、福岡県香春町に生まれた生原は県立田川高校、早稲田大学時代は捕手を務め、卒業後は亜細亜大学野球部監督に就任。わずか3年で、チームを東都大学野球リーグ3部から1部に昇格させる手腕を発揮した。しかし、生原はさらなる高みを求めた。学生時代に来日中のドジャースの試合をテレビ観戦した記憶が鮮烈に残っており、メジャーリーグへの憧れは消えることはなかったのだ。
65年に渡米し、ドジャース傘下のマイナー球団のクラブハウス係としてのキャリアをスタートさせた。仕事内容は掃除やユニホームの洗濯などの雑用。だが、真面目な仕事ぶりが次第に周りの評価を変えていった。当時マイナー球団GMだったピーター・オマリーも生原の仕事ぶりに感心し、生原は70年にドジャースのオーナーに就任したオマリーとともにドジャースのフロントで働くようになる。折しも、オマリーは野球が五輪正式競技になることや野球の国際化に興味があった人物で、82年には生原を自らの補佐役と要職である国際担当に就かせた。
生原は国際担当に就任してすぐ、オマリーから重要な任務を言い渡された。「野球をロサンゼルス五輪(84年)の正式競技にするために根回ししてほしい」。生原はすぐに東京に向かい、オマリーの代理としてJOCや野球関係者と会合を重ねた。国際柔道連盟会長の松前重義の協力でソ連の体育スポーツ委員会議長との会談も強行。残念ながら、ソ連のブレジネフ書記長死亡で風向きが変わり、ロサンゼルス五輪での実現は叶わなかったが、その後86年のIOC総会で満場一致で野球が承認された足がかりの一端を担った。
生原は日本野球の国際化に関しても、協力を惜しまなかった。巨人や中日のベロビーチキャンプを実現させ、日本のプロ球団から送られてくる野球留学生の面倒も見た。野球留学した中日の山本昌広も「アイクさんが試合でリラックスするコツやチェンジアップやスクリューを投げるタイミングを教えてくれたおかげで、自分は日本に戻って自信をもってプレーすることができた」と振り返る。
92年に55歳の若さで亡くなり、心待ちにしていただろう野茂英雄のドジャース入団(95年)に立ち会うことはできなかった。しかし、オマリー家のお墓の隣に眠る生原は、この吉報を誰よりも喜んでいたに違いない。2002年には日米野球の親善大使、野球の国際化への尽力・功績が評価され、野球殿堂入りを果たしている。=敬称略(有)