次世代に伝えるスポーツ物語一覧

競泳・橋爪四郎


 出会いがその後の人生を大きく左右することがある。後に競泳自由形で数々の世界記録を打ち立てる橋爪四郎にとっては終戦の翌年、昭和21年の夏に、まさに人生を左右する出会いが訪れた。
 中学を出て2年目のことだったという。将来は商売で身を立てようと、和歌山の実家を出て奈良の繊維関係の会社に勤めていた際に、小さな新聞記事を見つけた。
 「『古橋(広之進)が和歌山で水泳講習をやる』という内容の記事で、よし行こうと思った。働くといっても奉公のようなもの。きつくてきつくて…。この記事をきっかけに心が決まった」
 講習会は伊都中学で行われた。その講習会に古橋を連れてきたのが葉室鉄夫だったことも橋爪には幸いした。日大OBで1936年ベルリン五輪200メートル平泳ぎの金メダリストは当時、大阪毎日新聞の記者をしていた。
 橋爪はこう振り返る。「僕の泳ぎを見て、葉室さんが『日大で水泳をやってみないか』と誘ってくれた。古橋も『一緒にやろう』という。こっちはもう奈良に戻るつもりはなかったから、『行きます』と即答だった」
 日大入学後の橋爪の活躍は目覚ましかった。183センチの身長と長い手足を生かした泳ぎで古橋とともに、世界新記録を連発していく。ただ世界新を達成すると、常に古橋がその先を行った。古橋に続く2位。圧倒的なまでの強さで、米国の度肝を抜いた49年8月にロサンゼルスで開催された全米選手権でもそうだった。
 戦後、日本が初めて参加した52年ヘルシンキ五輪。ここで橋爪は1500㍍自由形で銀メダルを獲得する。金メダルを期待された古橋は、その2年前にアメーバ赤痢に罹患し、得意の1500メートルでは五輪出場権さえ得られず、出場した400メートルも8位に終わる。この古橋の“不調”が橋爪にも多大な影響を与えたという。
 「これまで古橋の後ろをついて行けばよかったのが、(ヘルシンキでは)自分で逃げ切らねばならない。今までのレースと違うのだから、重圧とともに正直、戸惑いも感じた」。その結果の銀メダルだった。
 橋爪はこの時のメダルをひけらかすことはなかった。古橋への思いからだ。「古橋は長男だった。僕は末っ子、天真爛漫でね。性格も反対でした。長男としていろんなモノを背負い込んでいたんだと思う」
 今年8月2日、世界選手権開催中のローマで、80歳で急逝した古橋。その悲報に接した橋爪(80)の思いはいかばかりだったか…。「ヒロさんとともに競技できたことを誇りに思う。…敗戦で希望も目標もなくした若者に一緒に水泳をやらないかと声をかけてくれた。お陰で何者にもまねのできない選手生活を送ることが出来た…」。こうコメントを出した。=敬称略(昌)