ボクシング エディ・タウンゼント
スポーツを物理的に行うのはもちろん選手である。本人の努力、才能無くして、実力本位の世界では光り輝くことはできない。しかし、たぐいまれな天才をのぞく、すべての選手は、その力を独力で世界に伍するまでに磨き育てることはできない。そこには、パートナーとも言うべきトレーナーの存在が欠かせない。この二つが合わさってはじめて、歴史に名を残す選手が誕生するのである。
ボクシングは、減量、トレーニングと極限まで肉体と精神を追い込まなければならない過酷なスポーツのひとつ。このスポーツには、選手と二人三脚でトップを目指すトレーナーの存在が何にもまして必要とされる。多くの名トレーナーが生まれてきたが、なかでも、6人もの日本人世界チャンピオンを育て上げたエディ・タウンゼント(本名、エドワード・タウンゼント)は、日本ボクシング史に永遠に色あせることのない偉業の人である。
エディは1914年、アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれた。11歳からボクシングをはじめ、17歳でハワイのアマチュアフェザー級チャンピオンとなる。太平洋戦争を機に引退し、トレーナーに転身。1963年にハワイ巡業に来ていたプロレスラー、力道山に招請されて来日。その後、日系3世の藤猛のトレーナーを務め、1967年に藤をWBA・WBC世界スーパーライト級チャンピオンに押し上げた。
エディは選手の長所を褒めて伸ばす指導法だった。はじめて来日した時、ジムに転がる竹刀をみて、「この棒片づけてよ。ボク、ハートで教えるの」と語ったという。選手たちは、エディのハートに触れ、自発的に練習に力を入れていった。
その後、海老原博幸、柴田国明、ガッツ石松、友利正、井岡弘樹といった世界チャンピオン、カシアス内藤、赤井英和らのトレーナーを務める。
最後の弟子となった井岡とは、井岡が14歳のときに出会った。厳しい練習の中にも「OK,Boy」とほめて長所を伸ばし、練習後の夜食を共にして愛情を注いだ。1987年10月、井岡がついにWBC世界ミニマム級チャンピオンとなったが、すでに直腸ガンに侵されており、車椅子での指導を余儀なくされた。その後入院。翌年1月31日の初防衛戦では、観戦を切望し、ベッドに横たわったまま会場に出向いたが、試合開始直前に意識不明の危篤状態に陥り、入院先へ戻った。井岡が12回TKOで初防衛を果たしたとの知らせを枕元で聞くと、右手でVサインをし、そのまま息を引き取った。
不世出のトレーナー・エディの偉業をたたえ、優秀なトレーナーに贈られる「エディ・タウンゼント賞」が1990年に創設された。
=敬称略(銭)