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サッカー・ラモス瑠偉

 「カミサマ…」。
 1993年10月28日。中東のカタール・ドーハで行われ、「ドーハの悲劇」と呼ばれた94年アメリカW杯アジア地区最終予選の対イラク戦は後半のロスタイムに入っていた。誰もが最後のワンプレーと思っていたであろうイラクチームのコーナーキックは、日本DF陣の網をかいくぐり、無情にもゴールを揺らした。その瞬間、チームの司令塔、ラモス瑠偉は天を仰ぎ、こうつぶやいた。ブラジル出身で89年に日本国籍を取得して以来、技術はもちろん日本代表の精神的支柱となってきた男も、この試合終了後だけはなかなか立ち上がることができなかった。
ラモスが日本の地を初めて踏んだのは1977年、20歳のときだった。日本の読売FC(現在の東京ヴェルディ)でプレーしていた日系二世のジョージ与那城にスカウトされ、実家の家計を助けるために読売FC入団を決意する。来日当初は「ブラジルの草サッカーよりひどい」と思ったほどのレベルだったが、好敵手だった日産自動車(現在の横浜F・マリノス)の木村和司らと日本リーグを盛り上げ、Jリーグ開幕への立役者となっていく。

 ラモスの代表デビューは帰化直後の90年、北京アジア大会。当時、日本代表は54年にW杯初出場を果たしていた韓国の後塵を拝していたが、90、91年の2年連続で日本年間最優秀選手賞を受賞したラモスの加入で、この頃から韓国と互角の戦いができるようになる。アジア地区最終予選の前年、92年にはダイナスティーカップ優勝、さらにアジアカップ初優勝を果たすまでにチームは成長。翌93年5月15日には念願のJリーグも開幕した。日本リーグ時代の黄金カードだった「ヴェルディ対マリノス」はJリーグ開幕試合となり、ヴェルディはその年の年間総合王者にも輝いた。ラモス自身、そして日本代表も満を持して臨んだW杯への挑戦、それがアジア最終予選だった。

 98年、41歳で現役を引退した後も指導者として日本サッカーに情熱を注ぎ続けるラモス。2009年7月にはビーチサッカー日本代表の監督に就任した。日本人以上に日本を愛し、日本サッカーの発展を願ってやまないラモスが再び世界を目指す。=敬称略(有)