次世代に伝えるスポーツ物語一覧

野球・高畠導宏

 特異な経歴を持つ1人の高校教師が60歳で世を去った。2004年夏のことだった。プロ野球の打撃コーチとして約30年間、南海(現ソフトバンク)やロッテなどを渡り歩いた高畠導宏。ユニホームを抜いた後、「彼ら(高校生)に将来何をやりたいかという意識を持たせ、生きる力を与えたい」。こう決意し、教壇(公民担当)に上がったのは昨春のこと。志半ばでのことだった。
 努力と工夫の人だった。コーチ時代は「いろいろな世界の指導法を勉強しよう」と、バレーボールやボート、柔道などの練習を見学。心理学まで学び、選手指導に生かした。選手に適したバットを作るために、職人を材料や機械ごとキャンプ地に呼んだこともあったという。一念発起したのは50歳を過ぎてから。大学の通信教育に学び、5年を要して教職課程を取った。ナイターの日は午前中、就寝前も毎日1時間、そして遠征の合間を縫ってスクーリングに通ってのことだった。「命がけでやるだけ。新しいやりがいを見つけた。残りの人生は子供たちにささげる」。教師になる直前、こう決意を語ったという。
 1944年1月、岡山県生まれ。当時、子供がやるスポーツといえば、野球か相撲。高畠少年も野球の虜になっていく。岡山南高、社会人を経て中央大、そして再び社会人を経て南海へ入団。強打者としてならした。だが、肩に致命的な故障を負い、現役時代は短かった。しかし28歳で打撃コーチとなると、持ち前の努力と工夫で以降、落合博満、イチローら多くの好打者を育て上げ、“高畠学校”とも呼ばれた。

 「未練はない」とユニホームを脱いだのは平成14年秋。そのころ福岡県太宰府市の私立筑紫台高校で教育実習を体験し、“第二の人生”に教師を選ぶ。そして今度は教育者として監督として「甲子園」出場が夢となった。元プロは2年間以上の教職経験がなければ、監督に就任できない。そのハードルも来春には越えるはずの5月、末期がんの告知を受けた。単身赴任先の福岡から帰京する日も授業をし、周囲には「無理をするな」と声をかけられながら、「私のいまの姿が教材になる」と一蹴した。7月1日、膵臓がんのため、死去。同僚に最後に語った言葉は「がんと闘ってきます。必ず帰ってきます」だった。
 だが、種は蒔かれていた。2008年、巨人、広島などで投手として活躍した小川邦和が高校教師としてデビュー。小川が高校野球の指導者を目指そうと思ったきっかけは、高畠の挑戦を知ったからだった。先輩の挑戦を知り、「2年以上教職を務めれば、指導できるなら、やってみよう」と決意したという。やはり通信講座で教職免許(英語)を取得した。夢だった「甲子園」出場はかなわなかった高畠だが、しっかりと新たな道を切り開いた。=敬称略(昌)