マラソン・瀬古利彦
フルマラソン出場15回。そのうち10回の優勝を誇ったマラソン界のカリスマ。そんな瀬古利彦も、三重県桑名市立明正中時代は野球部のエースで四番だった。しかし、生来、足は速く、陸上部のピンチヒッターで出た市大会の2000mで優勝。続いて県大会でも優勝。「勝てない野球よりは」と陸上を本格的にやるため、陸上で有名な四日市工業高校へ進学した。中長距離を得意とし、2年、3年にはインターハイで800m、1500mを連覇する。
マラソンの才能を開花させたのは、早稲田大学の競走部で名伯楽といわれた中村清監督と出会いだった。「名人たちの世界」(近藤唯之著)によれば、練習で瀬古の才能を見抜いた中村監督は、「君が命を私にあずけてくれるのだったら、私も命がけでマラソンを君に教えよう。どうだ、やるか―」と声をかけた。瀬古は即座に答えていた。「やります」。
在学中の3年、4年で、福岡国際マラソンを連覇。世界に通用する日本マラソン界のホープとして、1980年のモスクワ五輪の代表に選ばれた。しかし、ソ連のアフガニスタン侵攻に対する西側諸国の大会参加ボイコットによって幻の五輪に。当時24歳で登り竜の勢いだった瀬古にとって、目の前にぶら下がっていたメダルに手を伸ばすことすらできなかった痛恨の出来事だった。
瀬古の走りの特徴は、中長距離ランナーとしての経験を生かした最後のスパート力にあった。1983年の福岡国際マラソンでは、イカンガー(タンザニア)に最後まで喰いつき、競技場の第4コーナー、ラスト100メートルで追い抜き、優勝した。フルマラソンの最後の100メートルにかけた時間はわずか16秒だった。
1984年、再びロサンゼルス五輪の代表に選ばれる。真夏の炎天下のもとでの過酷なマラソン。優勝候補といわれた瀬古は2時間14分13秒という凡庸なタイムで14位に沈む。周囲の期待からのプレッシャーはものすごく、さらに直前まで行っていた過酷な練習がたたり、大会2週間前には血尿が出ていた。明らかな調整ミスだった。次のソウル五輪でも代表となったが、すでにピークを過ぎていた32歳は9位に終わった。同時代のライバルから「ナンバーワン」と言われ続けた実力を五輪で発揮することなく、瀬古の現役人生は終わりを告げた。
その後は、ヱスビー食品陸上部監督や早稲田大学競走部コーチなどとして後進育成にかかわっており、現在は東京都の教育委員も務めている。=敬称略(銭)