「五輪の申し子」 橋本聖子
4年に1度の五輪の大舞台を目指し、世界中で多くの選手が日々努力を重ねているが、夢を現実のものにできる選手は一握りしかいない。そんな中にあって橋本聖子は夏冬合わせ7回もの出場を果たした。
1964年10月5日生まれ。その5日後、父、善吉さんは国立競技場で行われた東京五輪の開会式を観戦。赤々と燃え上がる聖火に感動し、娘を「聖子」と名付けた。そこから、後に「五輪の申し子」と呼ばれることになる人生が始まる。
「将来は五輪に出るんだよ」。幼少時から家族にそう言われながら育った橋本は、3歳でスケートを始めると、短距離から長距離までをこなすオールラウンダーに成長。19歳で1984年サラエボ五輪に出場を果たすと、94年リレハンメル五輪まで冬季五輪に4大会連続で出場する。88年カルガリー五輪では出場全5種目で入賞を果たし、92年アルベールビル五輪では女子千五百㍍で、冬季五輪日本女性初となる銅メダルを獲得。最後まで諦めず常に完全燃焼を目指す滑りは、観る者の心を熱くさせた。
一方で、88年ソウル五輪からは自転車競技で夏季五輪にも出場。季節を問わない大車輪の活躍には、恵まれた肉体があるかのように思われがちだが、その競技生活は順風満帆だったわけではない。小学3年のときに腎臓病にかかり、2カ月の入院生活を送ったうえ、2年間の運動禁止に。高校3年のときにも呼吸筋不全症などにより、生命の危機にもさらされている。
ただ、これらの逆境がなければ、橋本が一流選手になることはなかったのかもしれない。不治の病、面会謝絶の札…。「私の分まで頑張ってね」。無情な現実を突きつけられる病院内で知り合った人たちからのそんなメッセージが、橋本に「完全燃焼」の信条を芽生えさせ、過酷な練習を耐え抜く精神力の源になった。
完全燃焼の精神は96年アトランタ五輪を目指す過程で強烈に示された。92年バルセロナ五輪でも自転車競技に出場した橋本だが、あくまでもスケート強化の一環だったことが心残りだったため、リレハンメル大会でスケートに区切りをつけながらも、「自転車で悔いのないレースをしたい」と、アトランタ五輪を目指す。95年からは参議院議員となり多忙を極めた中での挑戦だった。睡眠時間を削って公務と競技生活を両立し、通算7度目の五輪に出場。そして、女子2万4千㍍ポイントレースで、自己最高の9位に食い込んでみせた。
「五輪の申し子」はこの冬、バンクーバー五輪で檜舞台に帰ってくる。日本選手団団長として完全燃焼の大切さを誰よりも知る「申し子」が日本チームを牽引する。=敬称略(謙)