柔道・山口香
1984年11月11日。日本では向かうところ敵なしだった19歳の山口香が自身3度目となる第3回世界女子柔道選手権(オーストリア)で3度目の決勝の舞台に立った。過去2回は決勝で敗れ、銀メダル止まり。「ここで金を取れなければ一生取れない」。自らを奮い立たせ、4年前の第1回大会で敗れた因縁の相手、フロバットに果敢に挑んだ。「効果」で一歩リードし、「指導」を取られてもまだポイントで上回っていた矢先、場外ぎりぎりで背負い投げを仕掛けたとみなされ、主審から「掛け逃げ」の注意を受ける。しかし、そこで山口は「掛け逃げ」のつもりはなかったと、判定に抗議するという行動に出た。協議の結果、山口の抗議が受け入れられ、「注意取り消し」となる。判定に抗議するという行為は当時の日本柔道界、ひいては日本スポーツ界では異例ともいれる行為で反発も出たが、山口は「国際舞台で必要なのは自分をいかにアピールするかということ」と意に介さなかった。技術面だけでなく精神的にも“世界レベル”に到達した山口はそのまま優勢勝ちし、日本女子柔道に初の金メダルをもたらした。
東京五輪が開催された1964年、東京都に生まれた。テレビの「姿三四郎」を見て、小学一年生で柔道を始める。当時最年少だった13歳で参加した第1回全日本女子柔道選手権大会の50キロ以下級でいきなり優勝すると、2年後の第1回世界女子柔道選手権(米国)では52キロ以下級で日本人選手団唯一のメダルを獲得し、日本女子柔道の黎明期を牽引した。いつしか自身が憧れた「姿三四郎」にちなんで「女三四郎」と呼ばれるようになった。柔道ブームを巻き起こした人気アニメ「YAWARA!」の主人公、猪熊柔のモデルになったともいわれる。
女子柔道が五輪の正式種目になったのは92年のバルセロナ五輪。実に男子の28年後のことだった。女子柔道がまだ公開競技だった88年のソウル五輪で、52キロ級に出場した山口は準決勝でフランスのブランに敗れ、銅メダルに終わる。翌年、全日本体重別選手権で当時高校生だった江崎史子に敗れ、ほどなくして現役を引退した。
女子柔道はその後、田辺陽子や谷亮子らが現れ、現在に至るまで各階級が世界トップのレベルを保っている。五輪では毎回メダルを期待され、「日本のお家芸」の名に恥じない活躍も見せている。山口は現在、全日本柔道女子強化委員として、後進の指導に当たる。山口が開拓した女子柔道のよき伝統は脈々と受け継がれている。=敬称略(有)