次世代に伝えるスポーツ物語一覧

スピードスケート・北沢欣浩

 「運7割、実力3割」。がんばっている選手にとってはなんとも不遜な表現ながら、ささいなミスや状況の変化が結果に反映されるスピードスケートを評してそう言われることもある。だからではもちろんないのだろうが、1984年のサラエボ冬季五輪で日本スピードスケート界に初めてメダルをもたらしたのは、常に本命のサラブレッド、黒岩彰の陰に隠れていながら、“突如”登場したダークホース・北沢欣浩だった。

 北海道・釧路市で育ち、ひ弱な身体を丈夫にしようと小学校前からはじめたスケート。メキメキと実力をつけ、高校2年のときのインターハイでは2位。優勝は黒岩だった。3年で出場した全日本スプリント選手権でも2位。優勝はこれまた黒岩だった。早くも世間の耳目を一身に集めていた黒岩が一年上におり、北沢は常に2番手。太陽の陰に隠れた月のような存在だった。大学は、スケートの名門からの誘いはあったが、自由に練習できる法政大を選んだ。各大会での成績は決して悪いものではなかったが、陽が輝けば輝くほど陰は濃くなるもので、専修大にいた黒岩にここでも勝つことはなかった。

 サラエボ五輪は大学3年のときに迎えた。短距離の代表枠4人のうち、前年の世界スプリント選手権で総合優勝を果たし、金メダルが期待された黒岩は別格だったが、直前の大会で総合3位に付けた実力を買われ、4人目に選ばれた。マスコミをはじめ、世間の注目は黒岩だけに集まり、北沢が取材を受けることすらほとんどなかった。しかし、そのお陰でプレッシャーから免れ、のびのびと練習を続られ、本番に挑むことができた。

 1984年2月10日。大会3日目は一日中雪が降り続いていた。男子スピードスケート500メートル。期待の黒岩は吹雪の影響もあってか、タイムは凡庸で、結果10位に沈む。その直後にスタートした北沢。吹雪の中を力強い走りで滑り抜けた。38秒30。2位で銀メダルを獲得。日本スピードスケート界悲願の初メダルだった。北沢が黒岩に勝ったのはなんとこれがはじめてだった。

4年後に引退した北沢が大舞台に戻ってきたのは1998年の長野五輪。開会式に五輪旗を持って入場する猪谷千春(日本人初の冬季五輪メダリスト)、笠谷幸生(「日の丸飛行隊」金メダリスト)、金野昭次(同銀メダリスト)とともに選ばれた。最高の舞台で最高の結果。そのご褒美は14年後に至福の瞬間として訪れた。=敬称略(銭)