次世代に伝えるスポーツ物語一覧

レスリング・笹原正三

 圧倒的なまでに力の差を見せつけての金メダルだった。1956(昭和31)年メルボルン五輪レスリング(フリースタイル)フェザー級。日本選手団の旗手も務め、期待を一身に集めていた27歳の笹原正三は「最初から金メダルを取るために行った」と胸を張った通りの快進撃で、6戦全勝(1試合不戦勝)。大舞台でまったく危なげなく頂点に立った。自信の裏付けは、周到な準備にあった。
 「自分自身に“絶対勝つんだ”と言い聞かせ、そのためのすべての準備を怠らなかった。1回戦で最強の相手と当たり、3日間続けて強豪にぶつかると想定して練習しました。五輪では、実際その通りになりました」
 米国はもちろん、ロシアやトルコ、イラン、ブルガリアなど強豪国に積極的に遠征に出かけては、屈強なライバルを相手に、試合を重ねた。もちろん遠征費は十分でなく、募金、ヒッチハイクなどでのまさに武者修行。五輪で戦うであろう強敵を知り、その対策を立てて、練習に打ち込んだ。こうした遠征は、日本が強くなるには外国勢と交流することが近道と考えた日本レスリング協会の八田一朗会長の方針からだった。さらに笹原には五輪に向けて、自ら編み出した“必殺技”を持っていた。「ササハラズ・レッグシザーズ」と呼ばれた「笹原式またさき」。新技誕生のきっかけは2年前の世界選手権(東京)決勝に遡る。地元開催の大会で何とか勝利を収めたものの、トルコ選手のまたさきに苦しめられた。「どうにか我慢しましたが、とにかく痛かった。それで考えたわけです。自分なりに改良すれば、有効な技になるはずだ、と」。中大の後輩らを相手に研究を重ねて完成させた新技は、相手の足の間に片足を入れてガッチリと固め、テコの原理を使って上下させるもので、ポイントを稼げるうえに、フォールにも直結した。技術面での自信の証しだった。
 笹原には精神面でも、金メダルに大いに役立った“特技”があった。地元山形で苦労して身につけた英会話だった。山形商業(旧制)に進んだ笹原は、苦手だった英語を克服しようと、通学の片道4キロの道のりを単語帳と首っぴきで通った。終戦とともに山形に米軍が駐留してきたのを好機とばかりに、米軍キャンプの通訳のところに通っては英会話を習い、駐留米軍の要員採用試験に合格。文書管理の仕事に就いた。ここでの経験が五輪でも生きた。
 「外国に行っても新聞を読め、会話もできる。これは大きかった」。レスリングの専門書にも直接触れられたに違いない。1929(昭和4)年7月に山形に生まれ、少年時代は「虚弱児童」だったという笹原は、情報収集と研究、そして人一倍の努力を励行。いまの時代でも当てはまるアプローチで五輪に臨み、しっかりと期待に応えた。=敬称略(昌)