次世代に伝えるスポーツ物語一覧

相撲・栃錦

 戦後の相撲黄金時代の立役者となったのが、第44代横綱の栃錦だ。小さな体ながら大男を多彩な技で撃破するその戦いぶりは、戦後の閉塞感を一掃し、日本人を元気づけた。
 栃錦は1925(大正14)年、現在の東京都江戸川区に生まれる。小さな時から運動神経は抜群。地元では相撲も強かったため、春日野部屋に入門し、1939(昭和14)年の1月場所で初土俵を踏む。しかし、力士としては軽量で身長も178センチと大きくなかった。そのため周囲からの期待も薄く、駆け出しの頃は戦績もよくなかった。だが、その苦い経験が生きた。体格を補うために多くの技を習得し、いつしか「技の展覧会」と評されるようになる。戦後に制定された技能賞では常連となり、「技能賞は栃錦のためにある」といわれたほどだった。また、一度食らいついたら離れないそのしぶとい取り口から「マムシ」の異名も。あだ名の多い人気力士に成長した。
 1944年に十両に昇進したが、同時期に徴兵され、終戦まで軍隊生活を送る。戦後、旧両国国技館に戻ってきた栃錦は勝ち星を重ねて1952年に大関に昇進。そして1954年、通算3度目の優勝を果たし、第44代横綱の座に就いた。横綱昇進後は、最も軽かった時期に比べて60キロ以上も体重が増し、最大で140キロの大台に乗ったという。技の豊富さに加えて体格も備わった栃錦は、最大のライバル、若乃花(初代)といくつもの名取組を展開し、相撲人気を押し上げた。2人の対決とそれを取り巻く個性的な力士たちが活躍した1950年代は「栃若時代」と呼ばれた。
 栃錦は、引退後も角界に貢献し続けた。年寄として後進育成に励んだほか、審判部長や事業部長などを歴任。その中でも最大の貢献は、日本相撲協会理事長時代に尽力した両国国技館建設だろう。1985年に竣工したこの建物とともに、椅子席観覧客の待遇改善や相撲茶屋制度改革など、ソフト面の充実も忘れなかった。1990年、脳梗塞のため64歳で死去。折しも、1990年代前半は若貴兄弟ブームが巻き起こり、相撲人気は再度絶頂期となった。
 今も、JR小岩駅には栃錦の銅像が鎮座する。地元小岩の英雄は今も昔も、行き交う人々を見守り続けている。=敬称略(有)