野球・江藤慎一
1963年8月25日、中日球場の中日-巨人戦。試合は6-6の六回、雨足が強くなり、降雨コールドゲームで引き分けに終わった。全選手がダグアウトに引き上げる中、レフトの守備についていた中日の選手だけは、その場を動かない。
5分、10分…20分、この日、2ホーマーの男は、ずぶ濡れになりながら立ち続けていた。見かねたコーチが駆け寄って声を掛ける。「試合も成立しているし、本塁打も無駄にならないからいいじゃないか」。
審判団のコールドゲームの判断が不満だった男は烈火のごとく怒った。「勝たないと意味がないんだ」。気迫あふれるプレーで「闘将」と呼ばれた江藤慎一。25歳の時のエピソードだ。
熊本商高出身の江藤は社会人の日鉄二瀬を経て、59年に中日に入団した。当時、中日の監督だった野球解説者、杉下茂は「チームメートから文句が出るくらい守備のキャッチングは下手だったが、外角のボールをレフトに引っ張る力強いバッティングには定評があった。ライトに打って怒ったことがあるくらい」と振り返る。その豪打で64、65年と2年連続で首位打者を獲得。いずれも打率2位は、最多本塁打、最多打点の王貞治(現ソフトバンク球団会長)だった。
幾多の逆境にもひるむことはなかった。水原茂監督との確執から70年にロッテに移籍すると、翌年に首位打者を獲り、史上初めて両リーグで首位打者となった。大洋を経て、75年には選手兼任で太平洋の監督となるが、わずか1年で解任。76年、一選手に戻ってロッテに復帰し現役を続けた。そして、その年、バットを置いた。
現役時代の江藤は親代わりとなって3人の弟たちの学費を稼いでいた。契約更改でごねる後輩には球団を通じて自分の給料の一部を回した。一方で、酒のにおいをさせながら打席に立ったことも…。通算安打2057本、ベストナイン6度という輝かしい記録を残した強打者には、記憶に残る愛すべき逸話も多くある。
2010年1月、そんな江藤の野球殿堂入りが決まった。08年に肝臓ガンで亡くなった本人に替わり、殿堂入りの通知書を受け取った実弟の慶大野球部監督、江藤省三は「(殿堂入りしているのは)雲の上の方ばかりで、その一員に兄が…」と涙で声を詰まらせた。王の三冠王阻止を「最大の誇り」と語っていた江藤。省三は「兄貴は死に物狂いで巨人のONと争っていたけど、殿堂に入れて(2人の)仲間入りできたと思っているかな」。思いを代弁した。=敬称略(志)