次世代に伝えるスポーツ物語一覧

野球・金田正一

 通算400勝298敗、奪三振数4490個、14年連続20勝以上…。プロ野球界でいまだに燦然と輝き続ける大記録の数々。間違いなく日本球界で過去と現在を通じてナンバーワン投手の名称を受けるに値する存在だ。
 そんな金田のプロとしてのスタートは、なんと17歳。1950年、愛知・享栄商業高校の2年時、夏の甲子園大会の県予選準決勝でエースとして投げるも敗退し、その夏に高校を中退して国鉄スワローズ入りしてのことだった。中卒も珍しくない時代。のちに怪童と名高い尾崎行雄も大阪・浪商高校を中退している。金田は同年9月には初マウンドを踏み、2か月の間に早くも8勝を挙げたのだからすさまじい。翌年には22勝を挙げ、以後14年連続20勝以上を挙げた。
 184センチもの長身から投げおろすカーブ、そして速球が持ち味。特に縦のカーブは対戦打者に「2階から落ちてくる」と言わしめ、速球はスピードガンでいま測れれば、150キロ後半から160キロまで出ていたかもしれないといわれる。
 所属していた国鉄は弱小球団。前に転がされればエラーを招くかもしれない、と球を前に転がさないように三振の山を築き続ける。1958年の巨人との開幕戦では、鳴り物入りの大物ルーキー・長嶋茂雄と対戦して4打席4三振に切って取り、プロの意地をみせた。しかし、全打席フルスイングで向かった長嶋に対し、未来の大器であることも認めた。本物だけが分かる本物への直感だった。
 1965年に巨人へ移籍。巨人のV9への行進がはじまった年だった。すでに全盛期は過ぎていたが、当時の川上哲治監督は、野球に取り組む姿勢やトレーニング方法など金田の他の選手への影響力を考えての獲得だった。金田は、スポーツ医学が発展していなかった当時、すでに独自のトレーニング法を確立し、その結果、20年もの間、一線に立ち続けられた。巨人時代の5年間はわずか47勝ながら、開幕投手や日本シリーズ第一線に先発として何度も登板し、他の選手の兄貴分として、V9の立役者の一人となった。
 400勝に達した1969年10月10日に引退。背番号「34」は巨人の永久欠番となっている。引退後は、ロッテで監督を2回に渡って務め、1974年には日本一にも輝いた。
 1988年に野球殿堂入り。豪放磊落な性格で、「球界活性化のために巨人はパ・リーグへ移るべき」と歯に衣着せぬ発言は現在も健在だ。自分を育ててくれた球界への還元を続けている。=敬称略(銭)