次世代に伝えるスポーツ物語一覧

ジャンプ・日の丸飛行隊 笠谷、金野、青地

 「さあ笠谷、金メダルへのジャンプ! 飛んだ。決まった!!」。テレビ画面からの実況が叫ぶ。日本はもちろんアジアで初めて開催された冬季五輪、1972年札幌大会70メートル級ジャンプで、笠谷幸生は1回目を84メートルの最長不倒でトップに立つと、2回目も79メートルをマークし、日本に冬季五輪初の金メダルをもたらした。

 独特の深い前傾姿勢から勢いよく飛び出す笠谷。その助走フォームを多くの外国人コーチは「常識はずれ」と評したという。北海道大江村(現・仁木町)出身。11歳で村内対抗少年大会にかり出されてジャンプを始め、高校1年で出場した全日本選手権で8歳上の兄、昌生を上回って3位に入る快挙を演じた。敗れた昌生はその後、弟の才能に懸け、コーチとなって笠谷を支えていく。札幌五輪に向けては「基礎トレーニングで脚の筋力を徹底的に鍛えた」と昌生。28歳で迎えた3度目の五輪での快挙に、笠谷は選手生活での一番の思い出の場面を問われ、「きょうの、今です」と喜びを語った。
 この大会で、金、銀、銅メダルを独占し、「日の丸飛行隊」と呼ばれた日本。その命運を決めたのは、笠谷以上に、銀メダルに輝いた金野昭次だったといえるかもしれない。日本の1番手として5番目に登場した金野は、「ウオーッ」という叫び声とともに1本目で82・5メートルの大ジャンプを披露。居並ぶ海外勢の出鼻をくじくとともに、笠谷ら続く日本ジャンプ陣に余裕を与え、リラックスさせたことだろう。「日本の切り込み隊長」と呼ばれたこともうなずける。実際、勝負強さを買われての抜擢だった。札幌市出身。小学生時代にジャンプをはじめ、1968年グルノーブル五輪に初出場したが、惨敗。雪辱を期した地元五輪で、27歳は見事に期待に応えた。
 もう1人は青地清二。1本目は笠谷に次ぐ2番目の記録、83・5メートル。このとき、電光掲示を見上げた29歳はジャンプ陣の緊張を解くように「オイ、あの数字、間違ってるんじゃないか」とおどけて見せたという。続く2回目は失敗ジャンプ。普通の選手なら「途中で落ちていた」ともいわれるほどのミスを、何とか持ちこたえ、空中でバランスを立て直した。77・5メートル。この必死のジャンプを見た笠谷の兄、昌生コーチは「おまえに向けた『頑張れ』という無言のアピールなんだ」と、笠谷の背中を押したという。

 「金、銀、銅の独占は先輩(青地)の成し遂げた快挙だと思っています」。こう振り返った笠谷。3人それぞれの努力はもちろん、地元五輪に臨むジャンプ陣がとびきりの“チームワーク”を発揮して成し遂げたメダル独占だった。=敬称略(昌)