ソフトボール・上野由岐子
2008(平成20)年8月21日。ソフトボール日本代表が北京五輪ソフトボールの決勝戦で米国を倒し、金メダルを獲得した“奇跡”の日である。野球が惨敗するなど他球技で思うような結果が残せないまま終盤を迎えた北京五輪。日本全体に漂っていた沈滞ムードが一気に払拭され、これ以上ない歓喜をもたらした。そして歓喜の輪の中心にいたのは、準決勝からの3試合に先発し、413球を投げきったエース、上野由岐子だった。
上野がソフトボールと出会ったのは小学校3年生のとき。たまたま友人が入っていたソフトボールチームの監督に誘われたのがきっかけだった。すぐに競技にのめり込み、ピッチャーとしての才能を開花させた。小学校で県大会優勝、中学校で全国優勝を果たし、名門・九州女子高等学校2年時には、最年少で参加した世界ジュニア選手権で優勝するなど活躍の場を広げていった。そして上野が高校生だった1996年のアトランタ五輪で、ソフトボールが五輪の正式種目になる。「ソフトボールで五輪に出たい」。上野の新たな目標が定まった。
腰椎骨折で2000年のシドニー五輪に出場できなかった上野は、04年のアテネ五輪で初めて夢の舞台に立つ。しかし、日本代表は予選リーグで強豪の米国やオーストラリアに勝ち星を上げられず、3位決定戦で再びオーストラリアに負け、銅メダルに終わった。
アテネの敗北を受け、満を持して臨んだ北京五輪。上野は野球での体感速度160-170キロに匹敵する最高速度119キロを武器に、仲間の援護にも助けられながら勝ち進んだ。決勝戦の相手は体格とパワーで日本を圧倒する米国。アテネ五輪で敗北を喫し、前日の準決勝でも苦杯をなめた好敵手に対し、7回95球を完投した。打線も上野の奮闘に応え、三回に1点を先制し、四回には3番・山田のソロアーチで2点目が入った。7回にも1点追加し、3-1で米国を退けた。
試合終了後、世界一のエースに成長した上野の周りに仲間が集まり、斎藤春香監督も偉業を称えた。応援席でも、上野の所属先、ルネサス高崎(現ルネサステクノロジ)のシニアアドバイザーでアテネ五輪のソフトボール日本代表監督だった宇津木妙子や、けがで三大会連続出場を逃した守備の要、内藤恵美が日本代表の快挙に涙していた。涙を人前では見せない信条の上野の目にも光るものがあった。「マウンドで鳥肌が立った。このために4年間やってきた」と興奮した面持ちで話しながら、周囲への感謝の言葉を口にした。金メダル獲得の立役者が、全員の力で勝ち取った金メダルに酔いしれた。
残念ながら、ソフトボールは北京五輪を最後に五輪競技から外れ、少なくとも16年のリオデジャネイロ五輪までは復活する見込みはない。上野らソフトボール関係者らは、現在もソフトボールの魅力を伝えながら、五輪競技への復活を訴えている。「未来の子どもたちに私たちが味わった感動を返したい」。上野の思いが結実する日は来るのだろうか。=敬称略(有)