次世代に伝えるスポーツ物語一覧

ゴルフ・岡本綾子

 「わがままに好きな事をし、行きたい場所を選んだだけに、このようにゴルフ史に名を残す偉大な選手達の仲間入りを果たせるなどと夢にも思っていませんでした」
 2005年に世界ゴルフ殿堂入りを果たしたことについて岡本綾子は自身のホームページでこう語っている。米女子ツアーで通算17勝を挙げ、1987年には4勝をあげて日本人初の同ツアー賞金女王に輝いた。野茂もイチローもまだ来ていない時代に米国で名を轟かせた「世界のアヤコ」だった。
 広島県東広島市安芸津町出身。瀬戸内海を眺めながら育った岡本は成人になるまでソフトボール一筋。安芸津中ではソフトボール部のエース。ソフトボールの強豪・今治明徳高校に進学し、速球派のエースとして名を馳せた。ソフトボール部を創設したダイワボウに入社。20歳のエースは、1971年の和歌山国体でチームを優勝に導いた。
 岡本はこの後、プロゴルファーの道へと進む。いまのゴルフ界を活気づけている石川遼、宮里藍、横峯さくら…、といった幼いころからゴルフに慣れ親しんできた若手エリートとはまさに対照的な経歴だが、高須愛子や小林浩美らかつてのプロゴルファーは別のスポーツや社会人を経験してからゴルフを始めた者が多かった。
 1975年に2度目の挑戦でプロテストに合格。1977年に先輩の樋口久子にワールドレディースで勝った瞬間、万歳したことを「失礼だ」などと非難され、以来、喜怒哀楽を表に出すのをやめ、滅多に笑顔をみせることはなかった。
 250ヤード。男顔負けの飛距離を武器に、「飛ばし屋」は1979、82年に日本女子プロゴルフ選手権で優勝。1983年からは米女子ツアーに本格的に参戦した。1985年には腰痛が悪化し、ツアー参加を途中であきらめて入院した。これまで肉体を酷使してきたツケが回ってきたのだった。パパイアの酵素を患部に注射するという「パパイア・インジェクション」という治療を受け、復帰。腰の回転を恐れ、かつての「飛ばし屋」はなりを潜めたが、逆に体力で押す「パワーゴルフ」を卒業し、判断力とテクニックの総合力を生かした「頭脳派ゴルフ」へと脱皮した。その結果、1987年、女子メジャーの最高峰・全米女子オープンで、ローラ・デービス、ジョアン・カーナーとの雨による順延を含む6日間の激闘を展開し、惜しくもローラ・デービスに敗れるが、語り継がれる名勝負となった。そしてこの年、全米ツアー賞金女王に輝く。
 一生ひとつのことをやり続ける姿はかっこいい。だが、人は人生の途上で脱皮していくもの。岡本の栄光への軌跡はいまに至ってもあせることなく輝いている。=敬称略(銭)