次世代に伝えるスポーツ物語一覧

バスケットボール・萩原美樹子

 1997年6月21日、米国・ソルトレークシティーのデルタ・センター。WNBA(全米女子プロバスケットリーグ)の開幕戦が開催され、スターズと対戦したモナークスの萩原美樹子は前半6分過ぎから途中出場し、12分過ぎ、得意の左45度から放った3点シュートは見事にゴールに吸い込まれた。「ボールが来たら迷わず(シュートを)打とうと思っていた。ほんと、うれしかった」。
 体力がものをいう世界だからといって、スポーツ界で常に男性が先行するわけではない。田伏勇太が2004年、日本人として初めて北米の男子プロバスケットボールリーグ「NBA」のプレイヤーとなったが、先立つこと7年。萩原は米国で日本人初のプロバスケットボールプレイヤーとしてシュートを決めていた。
 バスケの元実業団選手だった父親の影響で小学4年からミニ・バスケをはじめた。福島女子高時代にはインターハイに2度出場したが、1、2回戦で敗退し、決して目立った選手ではなかった。しかし、全国強化合宿に参加した際に共同石油(現ジャパンエナジー)の中村和雄監督の目に止まり、「勉強は後からでも出来る。しかしバスケは今しかできない」と説得され、進学を断念し、共同石油に入社。実業団チームでバスケに没頭する。厳しい練習に耐え、3ポイントシュートを武器に、1993年から4年連続の得点王。全日本のエースに成長していった。1996年にはアトランタ五輪に出場し、3点シュート成功率44%、全出場選手中、得点ランク5位という活躍で、20年ぶりに出場した日本を見事7位入賞へ導いた。
 「アトランタ五輪が終われば引退しようと思っていた」
 そんな萩原の思いとは裏腹に、五輪での目覚ましい活躍から、1996年に発足したWNBAへ誘われ、「世界の中で自分を試してみよう」とカリフォルニア州のサクラメント・モナークスに入団する。そこでも3点シューターとしてまずまずの活躍を演じたが、自己主張が強いチームメイトやプレースタイルの違いに悩む。フェニックス・マーキュリーへ移籍したものの、翌シーズンに「故障者リスト」に載ったのを機に、契約を打ち切り、帰国した。そして1991年1月、復帰したジャパンエナジーを全日本3連覇へ導いた試合を最後に現役を退いた。
 引退後は、昔から好きだった日本史を勉強しなおそうと、会社を辞めて一年間“浪人”し、早稲田大学第二文学部へ入学。好きな勉強に打ち込んだが、2004年のアテネ五輪で女子代表のアシスタントコーチ就任を要請され、留年してコーチとして後進の指導にあたった。2008年の北京五輪でも代表コーチを務めた。現在も大学院で勉強を続けながら、女子U-16、U-18日本代表アシスタントコーチを務める。繁忙の中にも、“第二の人生”で好きなことに挑戦する日々を送っている。=敬称略(銭)