「ミュンヘンの奇跡」バレーボール・南将之
名演出家と、最高の舞台には味わい深いバイプレイヤーの存在は欠かせない。スポーツの世界でも同様だろう。世にいう「ミュンヘンの奇跡」でもそうした名脇役が、窮地を救った。南将之がその人。ベンチ最年長の31歳で臨んだ3度目の五輪だった。
1972年(昭和47年)9月8日。ミュンヘン五輪のバレーボール男子全日本は、東欧の雄、ブルガリアとの準決勝で思わぬ苦戦を強いられていた。予選リーグ5試合をいずれもストレート勝ちし、勢いに乗って臨んだはずの試合。ところが、こういう時にこそ、落とし穴は存在する。勝ちを意識した緊張からか、いつものプレーがなりを潜めた。第1セットを13-15で落とすと、第2セットも9-15。そして第3セットも先行を許す苦しい展開。南が投入されたのはまさにその時、0-2となった際だった。
「いよいよだな」。監督の松平康隆の意をくんだ南は、局面打開を担う自らの役割を認識し、196センチの長身を揺らしながらコートに飛び出していった。
64年東京五輪以降、金メダルに輝き、「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーだけが脚光を浴びていた。男子も東京で銅メダルを獲得していたにもかかわらずに…。以来、目指すは「金あるのみ」。男子の存在感を示すことを目標に掲げ、松平のもと、緻密で周到な準備で力を蓄えた。68年メキシコで銀メダル。8年計画で迎えたミュンヘンはいよいよ総仕上げ、頂点を見据えて乗り込んだ五輪だった。
41年7月に生まれで福岡県出身。南は福岡大大壕高から旭化成に入り、61年に全日本代表に初選出された。松平は経験豊かなこのベテランに精神的な支柱として、苦境に立った場合を想定した“切り札”として期待した。「南は世界の顔。出ただけで相手を威圧するはずだ」と。
「ムードを変えて、流れを日本に引き寄せること」と自覚してコートに立った南は、主将で30歳の中村祐造とともにオーバーアクションを交えながら走り回り、若手を励まし続けた。サーブ権を取っただけで、大喜び。面食らうブルガリアとは逆に、大古誠司、横田忠義の期待の大砲の顔に生気が戻り、セッター猫田勝敏の判断にも切れが戻った。このセットを15-9で取り返した日本は、第4セットも15-9で奪ってタイに持ち込むと、最終セットを15-12。逆転で3時間半に及んだゲームを締めくくった。翌日の東ドイツとの決勝も、第1セットを失うや、すかさず南を投入して流れを変え、セットカウント3-1。悲願の金メダルを獲得した。
1人の選手の投入が救った苦境。だが、南は「僕はそんなに活躍していません。覚えているのは、とにかくコートを走ったことですね」。まさに名脇役ならではのコメント。ここに「ミュンヘンの奇跡」の勝因が垣間見える気がする。=敬称略(昌)