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ラグビー・村田亙 日本初の海外プロ選手

 1995年の国際ラグビー機構(IRB)によるプロ化容認以降、すさまじい勢いで進化する世界のラグビー界。日本にとって厳しい状況が続くが、1999年、いち早く海外に渡り、フランスのプロリーグで活躍した選手がいる。スクラムハーフ(SH)として活躍した現7人制ラグビー日本代表監督の村田亙だ。
 瞬時にトップスピードに乗り、目の前に立ちはだかる大男の間をすり抜ける「サイドアタック」を武器に、1990年、22歳で日本代表入りを果たすと、翌年の第2回ワールドカップ(W杯)に出場。海外のラグビー関係者からも高く評価された。国内では、1996年度から日本選手権3連覇を果たした東芝府中の中心選手として活躍。日本有数のSHとして確固たる地位を築いた。
 そのとき、31歳。ラグビー選手としては、すでにピークを過ぎたとみられる年齢だ。だが、そのラグビー人生はここからさらに輝きを放つ。1999年11月に東芝を退社し、日本人初のプロ選手としてフランス2部リーグの「アビロン・バイヨンヌ」に移籍した。フランス語が話せるわけでもない。失敗すれば、明日からの生活の保障もなくなる。それでも、「海外でプレーしたい」という思いに揺るぎはなかった。渡仏直後に迎えたデビュー戦で、サイドアタックに、速攻に、持ち前の攻撃力で2トライを挙げ、あっさりとレギュラーの座を獲得。2シーズンにわたり、その才能が海外のプロリーグでも通用することを証明してみせた。
 フランスでの3シーズン目を前にした2001年春、村田は帰国を決意する。新たな所属先となったのは、ヤマハ発動機。一部リーグのチームからもオファーが届き、大きく可能性が広がったフランスでの生活を断ち切ってまで日本に戻ったのは、「桜のジャージー」を着て、世界と戦うためだった。その目は2年後に迫った第5回W杯を見据えていた。
 自身4度目のW杯出場は、首脳陣の判断で「まさかの落選」となったが、その後も強靱な精神力で自らを鍛え上げ、2005年には最年長記録となる37歳で日本代表に復帰。その後も40歳まで現役を続けた。
 選手として完全燃焼を果たした先駆者は、2016年リオデジャネイロ大会から五輪競技となる7人制ラグビーの指揮官として新たな舞台で世界との戦いに挑んでいる。=敬称略(謙)