次世代に伝えるスポーツ物語一覧

野球・衣笠祥雄

 幾多の死球にもめげず、倒されても倒されても立ちあがってくる男。それが“鉄人”である。“現代の鉄人”、阪神・金本知憲の連続試合フルイニング出場記録は1492試合で途切れたが、いまも連続試合出場は続いている。それでも、赤ヘルの大先輩である衣笠が打ち立てた2215試合連続試合出場の国内記録までには、さらに4年は続けなければならない。“鉄人”、衣笠の偉業はいまだ色あせることなく輝いている。
 鉄人への一歩は、中学からはじまった。柔道をやりたかったが、柔道部がなかったため、野球を選んだ。進んだ京都・平安高校では捕手として甲子園に2回出場し、1965年に広島カープへ入団。入団直後に契約金で買ったフォード・ギャラクシーを乗り回す“若気の至り”もあったが、内野手に転向後、地道な練習が実を結び、3年後にはレギュラーに定着していった。
 大阪万博が開かれた1970年10月19日の巨人戦。長嶋茂雄が逆転スリーランを放つ活躍の裏で、偉大な記録はスタートした。この試合で代打出場し、三振を喫した衣笠は、以来、引退する1987年10月22日まで17年間、一試合も休むことなく出場を続けることになる。
 記録への最大の危機は1979年。5月に極度のスランプで打率2割を切り、三宅秀史が持っていた連続試合フルイニング出場記録(700試合)にあと22試合と迫りながら、先発を外され、記録は途切れた。しかし代打で出場し、連続試合出場は続いていた。そんな衣笠を悲運が襲う。同年8月1日の巨人戦で、西本聖から受けた死球で右肩甲骨を全治2週間の骨折。翌日の出場は危ぶまれた。夜明けまで眠れぬ痛みに苦しんだという。そんな状態でも、代打で出場を果たす。三振に終わったが、全ストライクをフルスイングの空振り、不屈の精神力をみせた。
 「振る時に向かっていくタイプなので、どうしても内角を攻められてきたときに当たりやすい」
 こう本人が自覚するように、生涯で受けた死球は161を数える。それでもボールに向かっていく姿勢は揺るがなかった。常にフルスイングを心掛けるケレンみのないバッティングで、通算安打2543本、通算本塁打504本と堂々たる成績を残した。1975年には同僚の山本浩二とオールスターゲームで2打席連続アベックホームランを飾り、この年の球団初のリーグ優勝に貢献した。
 周囲の理解があってはじめて起用され続けるわけで、連続出場には周囲が認める成績が不可欠。この点で衣笠はだれもが認める大打者であった。
 「陽が昇り、日が沈むような野球生活でした」
 衣笠の引退時のセリフには、すべてをやり終えた充実感が満ちている。=敬称略(銭)