次世代に伝えるスポーツ物語一覧

バレーボール・松田紀子

 1976年モントリオール五輪女子バレーボール決勝は、まさに痛快劇だった。メキシコ、ミュンヘン(ともに銀メダル)と日本の前に立ちはだかったソ連(当時)を、一蹴しての金メダル。「東洋の魔女」に沸いた64年東京五輪以来、2度目の快挙を遂げた。その原動力となったのがセッターの松田紀子だった。
 試合時間はわずか1時間足らず。15-7、15-8、15-2のストレートで宿敵を圧倒した快勝劇は、大型エースの白井貴子らを寸分狂わぬトスで縦横に操ったこの24歳の名セッターの存在があってこそ、それだけに「背中に目がある」「ネット際の魔術師」とまで言わしめた。対ソ連向けに編み出した松田-白井のコンビによる速攻“ひかり攻撃”が面白いように決まり、ソ連ブロック陣をきりきり舞いさせたことがワンサイドゲームとなった理由だった。
 「実は、男子3人を含めた仮想ソ連チームを相手に練習を繰り返していたんです。勝てる自信はあったし、仮想チームの方が強かったですね」。後に松田はこう振り返っている。その言葉には、打倒ソ連に向けた練習のすさまじさが伺える。もっとも実業団に入社当初の松田は、目立たない存在だった。
 釧路商業のエースとして3年連続インターハイに出場。その後、日立武蔵(当時)に入社したが、レギュラーの練習をコートの外で見つめる存在だった。いわば「ボール拾い」。そんな状態が1年半も続いた。思うに任せない日々に、不満は堆積していった。そして、ついに爆発する。「ボール拾いをするために日立に入社したのではありません」。チャンスさえくれない山田重雄監督に対し、ぶつけた思いだった。
 この直訴が転機となった。その後、セッター転向を命じられた松田は、才能をめきめきと開花させ、全日本の司令塔としてなくてはならない存在へと成長していく。ただし同期のセッター永木芳子の協力がなければ、また違ったかもしれない。それほどに永木の支えは大きかった。セッターとしての基本は永木から教わった。さらに永木は愚痴の聞き役にもなってくれたという。「彼女がいたから私がいる」。松田は感謝の念をしっかりと胸に刻み込んでいた。
 五輪後、勝ち取った金メダルを惜しげもなく半分に切った松田は、五輪メンバーから外れた“恩人”の永木にメダルの左半分を贈った。
 「金メダルを目指した過程の方が私には大切。もし1人で持っていたなら、絶対に悔やんだと思います」。直訴同様、何とも歯切れのよい姿勢に、この名セッターあってモントリオールの痛快劇は演じられたのだろうな、と納得してしまうのである。=敬称略(昌)