次世代に伝えるスポーツ物語一覧

ボクシング・白井義男

 1952(昭和27)年5月19日。後楽園球場に詰めかけた4万人の大観衆が、一人の日本人が獲得した「世界一」の称号に熱狂した。国内で2階級を制覇し、満を持して世界タイトルマッチに挑戦した白井義男が世界フライ級王者、ダド・マリノ(米国)を判定で下し、日本人初の世界王者となったのだ。60人以上の世界王者がいる現在と違い、当時はフライ級からヘビー級まで8階級しかなく、世界王者は各階級1人だけ。世界の“8分の1”に上り詰めた白井の快挙は敗戦に打ちひしがれていた日本人に大きな希望と勇気を与えた。
 白井は1923(大正12)年11月23日、東京都荒川区に生まれた。小学校時代は「本当に弱虫だった」というが、小学校6年生のときに転機が訪れる。祭りの夜店で「カンガルーを相手にボクシングで戦う」という余興に挑戦したときのこと。カンガルー相手に初めてグラブを手にし、真剣勝負を展開した。試合の結果は、カンガルーの強烈な一発が白井の急所に入ったことによる白井の反則勝ちとなった。この「カンガルーとの一戦」が白井をボクシングの世界に導いた。
 戦時中の43(昭和18)年にプロデビューし、デビュー戦以来8戦全勝の成績を収めるが、招集されて海軍に入隊する。兵役中に座骨神経痛を患い、戦後にボクシングに復帰するも、思うような結果を残せないでいた。「引退」の文字もちらつき始めた頃、白井はその後のボクシング人生を劇的に変える人生最高の師に出会う。GHQ職員の生物学者、アルビン・カーン博士だ。カーン博士にボクシングの才能を見いだされた白井は、カーン博士の合理的かつ科学的なトレーニングによって、当時主流ではなかった「打たせないで打つ」アウトボクシングスタイルに磨きをかけ、勝ち星を重ねていった。
 カーン博士との師弟関係は、55年に白井が現役引退した後も続いた。白井の家族は身よりのないカーン博士を引き取り、晩年は痴呆症に苦しんだカーン博士を献身的に介護した。「皮膚の色、国籍を超え、言語、習慣の差を克服して、互いに心底から尊敬し合う人間としての信頼を勝ち得たことが、私の人生でたった一つの、しかしながら大いなる誇りなのである」。カーン博士とまさに“一心同体”同然だった白井は、カーン博士の「ボクシングビジネスに手を出すな」などの教えも忠実に守った。そして白井もまた、多くの後輩から尊敬され、日本ボクシング史上に燦然と輝く存在となった。=敬称略(有)