次世代に伝えるスポーツ物語一覧

サッカー・杉山隆一

 サッカーのFIFAワールドカップは今年、アフリカ大陸で初めて南アフリカで開催。日本の活躍が期待されるが、同本大会への日本の初出場は1998年。世界の舞台ではまだまだ新参者だ。しかしさかのぼること30年前、1968年のメキシコ五輪では世界の強豪を前に銅メダルに輝く活躍を演じた。その原動力となったのが、不世出のストライカーと呼ばれた釜本邦茂をアシストした杉山隆一だった。
 杉山は1941年生まれ。静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身で、市立袖師中でサッカーを始めた。進んだ清水東高では、俊足ドリブルを武器に1年時に早くも国体で優勝を果たした。以来、3年間連続して日本ユースに選ばれ、1959年のアジア大会では日本を3位に押し上げる活躍を演じ、サッカー後進国日本に希望を与えた。
 明治大3年時の1964年、日本代表のエースとして東京五輪に出場。4試合2得点の活躍で、アルゼンチンを破る殊勲を挙げた。直後、南米のクラブチームから「20万ドルの移籍」が持ちかけられたとの噂が立ち、“20万ドルの足”という異名を取った。しかし大会でのもっとも大きな収穫は、代表コーチ、デットマール・クラマー氏との出会いだった。トラップやパスなど世界レベルの指導を直接受けて実力を磨き、4年後のメキシコ五輪への足がかりとなった。
 東京五輪直後の秋のサッカーの早明戦では、早大の釜本との対決で話題を呼び、押し掛けた観客へのチケット販売に手間取って、試合開始が遅れる異例のハプニングも。大学卒業後も、三菱重工の杉山とヤンマーディーゼルの釜本との対決は日本リーグの名カードとなった。
 杉山は本来はドリブル突破からのシュートを持ち味とするフォワード。同じくフォワードの釜本とは、当然ライバル関係なのだが、メキシコ五輪に向けた強化練習や試合の繰り返しの中で、2人は伝説のコンビとなっていく。釜本のシュートを生みだすには、杉山のキープ力とパスの精度が不可欠だった。そして迎えた本番では、ナイジェリアを破り、ブラジル、スペインと引き分けて進んだ準々決勝でフランスを破った。準決勝でハンガリーに敗れるが、3位決定戦で開催国・メキシコを2-0で破り、銅メダル。チームの総得点9点のうち、杉山のアシストは5。フランス戦の1点とメキシコ戦2点は釜本とのコンビネーションから生みだされた。
 現役引退後は、ジュビロ磐田の前身、ヤマハ発動機の監督などを務め、チームを静岡県社会人リーグ2部から日本リーグにまで引き上げた。=敬称略(銭)