次世代に伝えるスポーツ物語一覧

競泳・青木まゆみ

 日本女子競泳陣では1936年ベルリン五輪200㍍平泳ぎの前畑秀子以来、個人種目で36年ぶりの金メダルは、「もう(水泳を)やめたい」と思うほどの練習の末に生まれた。1972年ミュンヘン五輪競泳女子100㍍バタフライ。直前の日本選手権で1分3秒9の世界新記録をマークし、優勝候補の1人として五輪に臨んだ青木まゆみが、期待通りの快泳を演じてのことだった。
 当然、日本中の期待が集まっていた。19歳。重圧に押しつぶされてもおかしくはない状況で、見事に期待に応えたのだから、驚くべき精神力を発揮しての快挙でもあった。
 五輪への道は15歳の冬、大阪のスイミングクラブにスカウトされたことで始まった。青木が、熊本県菊鹿町(山鹿市)の親元を離れたのは中学3年の1月。以来、過酷ともいえる特訓の日々がスタートした。毎朝5時起床で、1日8時間、少々の熱では休めない。時には怒鳴られ、そしてはたかれたことも…。類い希な才能があるからこそのスパルタ教育だったが、「何で私だけが…」という思いは、時に少女の瞳を濡らし、寮を飛び出したことさえあった。
 それでも歯を食いしばって練習に耐え、迎えた五輪の舞台。青木は予選1位で準決勝に進むと、2組2位(1分4秒11)で決勝進出を決めた。ライバルと目されたハンガリーと米国の選手は、準決勝でいずれも1分3秒台をマーク。記録的にもハイレベルな争いが予想される中で迎えた決勝で、3コースを泳ぐ青木は前半を抑えて入った。それにしても泳ぎが重く感じられ、50㍍の折り返しは7位に沈む。このままでは金メダルどころか、メダルにさえ手が届かないと思われたが、ここから本領が発揮された。164㌢、63㌔。発達した上半身に、どんぐり眼、おおらかな性格も相まって「女金時さん」の愛称で親しまれた青木が、その愛称通りに力強い泳ぎを取り戻す。消耗の激しさから当時は男子にしか出来ないとも言われた2ビート泳法(腕ひとかきの間に2回キック)で、グイグイと差を詰めると、残り1㍍で抜け出してゴールにタッチ。1分3秒34の世界新記録をマークしての会心の逆転劇を演じた。疲労気味で調子を落としていたとも言われていた中での勝利には、精神力と執念を感じさせた。
 「絶対泣かんとこ」。世界の頂点に立ったにもかかわらず、青木はこう思ったという。実際、表彰台では涙がなかった青木だったが、苦楽を共にし、わがことのように泣いて喜ぶ同僚の姿を見ると、耐え抜いた4年間の様々な思いが脳裏に去来し、涙があふれ出たという。類いまれな資質を持ち合わせていたことはもちろんだが、その才能を磨くためにどれほどの涙を流したことか、まさに努力の末に勝ち取った金メダルだった。=敬称略(昌)