マラソン・君原健二
酸素の薄い標高2200㍍の高地で行われた1968年メキシコシティー五輪。陸上長距離は過酷なレースが続いていた。途中で棄権したり、ゴールに入ってから昏倒する選手の姿が目立つ一方で、チュニジア、ケニア、エチオピアなど、ふだんから高地で生活している選手の活躍が顕著だった。そんな中、大健闘を演じたのが男子マラソンの君原健二だった。
優勝はマモ・ウォルデ(エチオピア)。“高地出身者”がここでも強さを示したが、続く2位に、首を振り、まるで夢遊病者のようになりながらも君原が食い込んだ。前回東京五輪では8位。その雪辱を高地という難しいレースで見事に果たした君原は「円谷さんが後押ししてくれた」。こう静かに振り返った。
君原と円谷。同学年の2人はよきライバルであり、共通点も多かった。高校3年のインターハイで、福岡・戸畑中央高の君原が1500㍍、福島・須賀川高の円谷は5000㍍で、ともに予選落ち。社会人になってからともに頭角を現し、やがて日本長距離界を代表するランナーに成長した2人は、そろって東京五輪のマラソン代表に選出された。
だが、その「東京」が2人のその後を分けることになる。銅メダルを獲得し、ベルリン五輪以来、28年ぶりに五輪メーンスタンドに日の丸を掲げた円谷が、さらなる高みを目指して自らを悲壮なまでに追い詰めていったのに対し、8位に終わった君原は「これが実力」と結果を受け入れ、その後はマラソンを自らとの闘いと置き換えていく。
「メキシコの前年、『もう一度、日の丸を掲げたい。それが国民に対する約束だから』と語った円谷さんの言葉が忘れられません」と君原。だが、調子が戻らず、悩み抜いた円谷は年が明けた1968年1月、「父上さま、母上さま、幸吉はもうすっかり疲れ切って走れません」という切なすぎる遺書を残し、28年の生涯を閉じた。メキシコは9カ月後に迫っていた。
「スタートラインにつくと、ふと円谷さんの顔が浮かびました」。まるで高地合宿地で行うマラソン。長距離選手にとっては過酷すぎるほどの戦いを、君原は2時間23分31秒でゴール。途中、アクシデントもあった。30㌔付近で腹の具合がおかしくなり、苦しみながらのゴールでもあった。まさに「円谷さんが後押ししてくれた」ともいえるレース。そんな僚友との思い出について君原は、「東京五輪の前年、札幌で2人とも1万㍍を日本新で走り、売店の縁台でビールを飲んで祝ったことが最も楽しい思い出」という。自らはもちろん、亡き僚友の思いもこもったレースだった。=敬称略(昌)