次世代に伝えるスポーツ物語一覧

サッカー・岡田武史

 「これだけ頑張ったので勝たせてやりたかったけれど、私の力が足りなかった。選手たちは本当に素晴らしかった。最後までついてきてくれた選手に感謝している」。
 2010年のFIFAワールドカップ南アフリカ大会決勝トーナメント1回戦でパラグアイに惜敗した直後、サッカー日本代表を率いた静かな闘将、岡田武史は真っ先に選手をねぎらった。南アフリカ大会直前の国際親善試合では結果を残せず、監督である岡田の解任騒動まで起きたが、いざ開幕してみればグループリーグで2勝1敗。グループ2位で決勝トーナメントを決めた頃には、日本中が「岡田ジャパン」のサポーターに変身していた。苦しい時期を一緒に乗り越えた選手たちは「16強」という結果を残し、W杯の前後で選手以上に“天国と地獄”を味わった岡田はW杯後、一転して「名将」と称賛された。
 1956年に大阪で生まれた岡田が、少年時代に熱中したのは野球だった。だが中学校入学後、メキシコシティー五輪(1968年)で日本代表が銅メダルを獲得し、脚光を浴びたサッカーにひかれ、次第に傾倒するようになる。天王寺高校時代にはユース代表に選ばれ、国際試合にも出場した。その後、進学した早稲田大学では、サッカー部ではなくサッカーサークルに所属した時期もあったが、日本サッカーリーグの名門、古河電工時代まで「読みが鋭いクレバーな選手」としてならし、日本代表にも選ばれた。34歳で現役を引退した後は、古河のコーチとして指導者のキャリアをスタート。念願だったドイツでのコーチ修行も経験し、「日本が海外に勝つにはどうすべきか」を模索する日々が始まった。
 代表監督として初めて白羽の矢が立ったのは1995年10月、W杯フランス大会最終予選でチームが不振だったために加茂周監督が更迭された後の“ピンチヒッター”で、だった。代表コーチとしてチームの状況は把握していたものの、コーチと監督では立場も責任も大きく変わるため、岡田にかかったプレッシャーは相当なものだった。その中でも、信念である「信賞必罰と公平」を貫いた。W杯開幕直前に日本サッカーを盛り立てた立役者、三浦知良を代表から外すという決断をしたのも、その信念に基づいてのことだった。2007年12月に発表された2度目の監督就任も、オシム監督の急病を受けてだったが、オシムサッカーの継承路線から次第に自分の色を強く出すようになり、守り中心の現在のスタイルを作り上げていく。守備偏重サッカーに一部の反論も出たが、結果を出すことでそれらの声をねじ伏せた。「表面的には山あり谷ありだったかもしれないが、目指すところ、やることは変わっていなかった」。岡田は帰国会見で、大会をこう振り返った。
 日本のW杯出場は1998年のフランス大会で初出場を果たしてからわずか4回。通算成績は14戦4勝3分7敗(FIFAの記録上、PK負けは引き分けと見なす)と大きく負け越している。80年というW杯の歴史においては、日本はまだ「新参者」だ。だからこそ、南アフリカ大会の「岡田ジャパン」による2勝は、岡田が大会前に掲げた目標「4強」を将来実現するためには、決して小さなものではない。=敬称略(有)