次世代に伝えるスポーツ物語一覧

スピードスケート・岡崎朋美

 2010年バンクーバー冬季五輪開会式。旗手として日の丸を手に日本選手団の先頭に立ったのは、岡崎朋美だった。冬季五輪に5大会連続出場を果たし、日本スピードスケート界を代表する選手となった岡崎だが、華々しい実績とは裏腹に、自身を「庶民派アスリート」と謙遜する。ただ、その言葉からは、努力の積み重ねで一歩ずつ階段を登りつめたという自負を読み取ることもできる。
 北海道の釧路星園高校時代は無名。身体能力を見込まれ、名門の富士急に入社したものの、1年目は練習についていくのがやっとで、涙を流しながら、橋本聖子ら先輩の後を追った。世界のトップクラスとの差は、あまりにも大きかった。「富士急はルックスで岡崎を採用した」と揶揄する声もあったという。
 そんな逆境が、負けん気の強い性格に火をつける。「このまま地元には帰れない。大学に行ったつもりで最低でも4年は頑張る」。秘めた決意を胸に、日々の練習で常に限界まで自分を追い込み続けた。
 くじけることなく重ねた努力は、「最低でも4年は頑張る」と決めた4年目のシーズン、結実し始める。94年リレハンメル大会で五輪初出場を果たすと、上昇気流に乗り、母国開催の98年長野大会では女子500メートルで、日本女子短距離初のメダルとなる銅メダルを獲得。「朋美スマイル」で日本中を魅了した。
 その後も、椎間板ヘルニアの手術から復活して2002年ソルトレーク大会に出場すると、06年トリノ大会の500メートルでは、3位に0秒05差の4位。09年3月には、「限界を決めるのは体力よりも気持ち」といわんばかりに、37歳にして500メートルの自己ベストを更新。進化の軌跡を残し続けた。
 07年11月に結婚。バンクーバー五輪後は子作りを最優先課題に掲げ、競技生活からは当面離れる方針。だが、長年にわたって指導を受ける名伯楽の長田照正氏に「いつまでたっても、スケートに対して純粋」といわしめた岡崎。リンクへの執着心に衰えはない。「ママさんスケーター」として、2014年ソチ五輪への出場を、しっかりと見据えている。=敬称略(謙)